●安禄山 あんろくざん
アジア 中華人民共和国 AD705 唐
705〜757 中国の唐の節度使・叛臣。営州・柳城(遼寧省朝陽県)で,突厥のソグド人武将の父と突厥阿史徳氏出身の巫女の母のあいだに生まれ,本姓は康とも無性とも伝えられる。本名を軋犖山(あつらくさん,光を意味するソグド語の音訳という)といい,のち安姓を名乗り,禄山と改名した。禄山は6種の言語に通じて互市牙郎(交易場の仲買人)となったが,幽州節度使張守珪に認められて武将となり,戦功によって節度副使・営州刺史に累進した。禄山は中央の視察官に贈賄して朝廷へのつてを得ると,巧みな自己宣伝によって玄宗の寵愛を獲得し,742年(天宝1)平盧節度使に任じられ,ついで范陽節度使を兼ね,751年(天宝10)には河東節度使となって3節度を兼任するにいたった。禄山は初め権臣李林甫と結んで玄宗にとり入ったが,楊貴妃の寵遇に伴って楊国忠が進出し,752年(天宝11)に林甫が死に,代わって国忠が政権を握ると,これと激しく反目した。754年(天宝13),両者の対立は決定的となり,翌年11月,かねて兵を練っていた禄山は,君側の好を除くと称して范陽に20万と号する兵を挙げた。翌月,早くも東都洛陽が陥ち,翌756年(天宝15)1月,禄山は大燕皇帝を称して洛陽で即位し,6月には長安を攻略して玄宗を蜀に遂った。しかし,このころから眼疾と疽を病んで狂暴化し,後嗣問題もからんで,翌年1月次子安慶緒によって殺された。乱は慶緒と,慶緒の殺害後は部将史思明・朝義父子によって継承されたので,あわせて安史の乱と呼称する。