●アンリ4世 アンリよんせい
ヨーロッパ フランス共和国 AD1553 フランス王国
1553〜1610 ブルボン朝最初のフランス王(1589〜1610)。ナヴァール王(1572〜1610)。【宗教戦争の時代】父はアントワーヌ=ド=ブルボン,母はナヴァール王妃ジャンヌ=ダルブレ。ユグノー(カルヴァン主義者)の母から新教徒としての教育を受け,ユグノーの指導者としての地位を確立していった。少年時代をベアルンの山岳地帯の豊かな自然のなかで過ごし,野性味あふれるなかにも家臣を大事にする人格を鍛えあげた。宗教戦争は1562年から始まるが,アンリがユグノーの総帥として登場するのは第3次宗教戦争からで,ブルゴーニュのアルネ=ル=デュックの戦いで旧教軍を破る軍功をあげた。サン=ジェルマンの和議で第3次宗教戦争は終了したが,新旧両派の平和共存のあかしとして,アンリとマルグリット=ド=ヴァロワ(カトリーヌ=ド=メディシスの娘でフランス王シャルル9世の妹)の結婚がとりきめられ,1572年8月17日に式は挙行された。この結婚を祝福するためパリに集まっていたユグノーのいっせい殺りくがサン=バルテルミーの虐殺事件と呼ばれるもので(同年8月24日),アンリはカトリックに改宗することによって命を救われた。その後3年間はフランス宮廷に捕われの身となったが,1576年2月脱出に成功し,カトリックを拾てて新教軍のもとに帰った。1584年6月フランス王アンリ3世の末弟アランソン公が亡くなると,王には子どもがなかったので,アンリがサリカ法典にもとづき王位継承人となった。ユグノーの王が登場することに反対するスペイン,旧教同盟の策謀が相ついだが,アンリは1593年7月サン=ドニ教会でカトリックに改宗し,翌年2月シャルトルで聖別式を行い,30年以上の長きにわたる宗教戦争に終止符をうった。1598年4月にはナントの勅令を公布して,カトリックを国家の宗教と規定しつつも,ユグノーには多くの特権を与えてこれを保護する姿勢を打ち出した。まがりなりにも信仰の自由を宣言した。
【絶対主義の基調】宗教的戦乱によって無政府状態となったフランス王国を再建するために,アンリ4世はさまざまの政策を積極的に推進していった。即位と同時に名門貴族を側近より排し,下級貴族のシュリーを重用して王国の経済・財政の再建をはかった。農本主義的な経済政策がそれで,タイユ税の軽減をはかり,役畜・耕具の差し押えを禁止して農民を保護した。工業面ではバルテルミ=ド=ラフマスの助言のもとに絹織物業やガラス工業の発展をはかり,コルベルティスムと呼ばれる重商主義思想の先駆となった。行政面では,1604年ポーレット法を確立して官職の世襲と売官の自由を認めた。これは官職価格の60分の1を毎年国庫に納めることが条件であったが,行政機構を貴族身分の独占から新興ブルジョワジーへも解放する役割を果たした。対外政策の面では,ナントの勅令によって新旧両派の和解を導いたあと,スペインとヴェルヴァン条約を結び(1598年5月),イタリア戦争に終止符をうったカトー=カンブレジの和約(1559)を追認して,スペインのフランス内政干渉政策を瓦解に導いた。また,1601年にはサヴォワ公とリヨン条約を結んでこの公領のフランス併合に成功した。アンリ4世の対外政策の基本は平和共存にあったが,スペイン王家の威信低下ならびに国際的孤立に執念を燃やし,ドイツのプロテスタント諸侯やスイスのユグノーを積極的に支援した。アンリ4世は1599年マルグリット=ド=ヴァロワと離婚し,翌年マリ=ド=メディシスと再婚し,4人の子どもをつくった。ルイ13世,スペインのフェリペ4世と結婚したエリザベト・ガストン=ドルレアン,イギリスのチャールズ1世と結婚したアンリエットが彼らである。しかし,1610年狂信的カトリックのラヴァイヤックの短剣の一撃をうけて,あえない最後を遂げた。やがて,フランス国王は新たな混迷の時代に突入することになる。
〔参考文献〕ハインリヒ=マン,小栗浩訳『アンリ4世の青春』,1973,晶文社