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●アンボイナ

アジア インドネシア共和国 AD 

 アンボンとも呼ぶ。インドネシア共和国東北部マルク省を形成する,いわゆるモルッカ諸島の1小島。南のバンダ海,北のセラム海のあいだに位置するアンボン群島(セラム島・ブル島など)に属し,セラム島の南西部にある。その中心都市アンボンは,マルク省の省都でもある。面積は約761平方km。人口は62,960人。島の北部にはイスラーム教徒も居住し,またプロテスタント活動を行っているが,中心はカソリックである。住民の知能水準も周囲の島々に比して高い。

 モルッカ諸島は香料貿易の名とともに著名であるが,アンボンはチョウジ(丁子)栽培の中心地であり,かつモルッカ諸島の香料貿易の拠点として16世紀以降,ポルトガル・オランダ・イギリスの争奪戦の舞台となった。アンボイナという名称自体,最初の侵略者ポルトガル人が“霧の島”という意味のマレー語からつけたものといわれる。アンボイナをはじめモルッカ諸島の香料は古くから有名であり,その交易には北部モルッカのテルナテ人やジャワ島北岸の商人たちが従事していた。ヨーロッパ諸国は渡来とともにその独占を計った。アンボン島に初めて現れたヨーロッパ人は,1512年にこの地に至ったポルトガル人アントニオ=ダブリウでポルトガル領を宣言した。以来,マラッカに根拠地を置くポルトガル香料貿易支配が続いた。しかし1599年にオランダ人ファン=ワールワイクがこの島にやって来,ポルトガルの支配を快く思わなかった島民の酋長と結び,1605年についに,ポルトガル人をアンボイナおよびその周辺から追い出すことに成功した。オランダは,これによりアンボンに根拠地を得,城を改築,ニュー=ヴィクトリアと称した。初代総督フレデリック=ハウトマンはポルトガルに代わりオランダの香料貿易独占を目論んだが,1615年にはイギリスも同島にやってきて,オランダとは島の反対側にその根拠地を設けた。両国の関係は,1619年の英蘭間の協定により表面上は平穏であり,イギリスの商館がオランダの要塞のなかに建設されるという状態がしばらく続いた。この当時は,鎖国前の日本から南洋各地に日本人が移住しており,アンボンにも少数の日本人がイギリスの商館で傭兵などとして働いていた。1623年の2月に,この日本人傭兵の1人七蔵の行動に不審をもったオランダ守備兵が彼を捕え拷問したところ,イギリスのオランダ要塞奪取計画を自白した。このため,オランダ側はさらにイギリス商館長ガブリエル=タワーソン以下30余人を捕え拷問の結果,この計画を確認するに至った。オランダ側はこれに対し,イギリス人10名,日本人10名,ポルトガル人1名を死刑に処した。いわゆる“アンボイナ事件”(“アンボンの虐殺”ともいう)である。この結果,オランダとイギリスの関係は急速に悪化し,両国間で進んでいた東インド会社合併案は破綻した。このため,この事件を,当時オランダの東インド貿易独占を主張していたヤン=ピーテルスゾーン=クーン(のちの東インド総督)の陰謀とするものもいた。この事件の真偽については両国のあいだで長期間にわたり論争が行われたが,第1次蘭英戦争後1654年に,オランダが賠償金を支払い,一応の決着をみた。しかしこの事件がイギリスの東インドからの撤退の端緒となったことは否めない。その後,ナポレオン戦争期に2度にわたりイギリス領となった時期(1796〜1802,1810〜1817)を例外として,オランダの支配は強化されていった。オランダが香料の買取価格を不当に低いものに定めたことや,その利益に従って生産調整を行ったこと,また香料栽培の監督・取締りのため東インド会社員を派遣し(“ホンギ遠征”という),圧迫を強化したので島民はしばしば反乱を繰り返した。“サパルアの反乱”により,知事ファン=デン=ベルフ以下ヨーロッパ人全部が殺害されたのを契機に,1824年に香料の購入価格引き上げとホンギ遠征の中止がなされた。