●アーンドラ朝 アーンドラちょう
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諸プラーナおよび碑・印章によって諸説がある。それらを総合して当王朝の別名が,サータヴァーハナ朝である。王朝樹立には前1世紀説と前3世紀説とがある。後3世紀初頭まで,デカン高原,現在のアンドラ州に活躍した。非常に古い時代からシャーリバーハナが,アーンドラ朝,またはその傍系の英雄的な最も古い王であったと流布されていたが,現存については証明されていない。アーンドラ(アンドラ)の名は元来アーンドラ族というドラヴィダ民族の一種で,ゴーダーヴァリー川とクリシュナ川の両川下流に住んでいたという。アーンドラ王朝の起源についてさまざまな説がある。アンドラブリトヤということばが,あるプラーナにあり,それはアーンドラ族そのものでなく,アーンドラ族の従属者が王家の祖先であるといっている。王朝の起源地としてマドラス州のベラリ説,ゴーダーヴァリー沿岸のパイタン説などのほかにも,西デカンのヴィンディヤ山脈の南であるという説が有力で,そこからアーンドラ地帯まで支配していったので,アーンドラ族・アーンドラ王朝と呼ばれるようになったのであるという説がある。いずれにしても現在では西デカン説が最も有力である。王朝の初代はシムカ王として,ナーナーガート碑文にも諸種のプラーナにも記されている。カーヌヴァーヤナたちと,シュンガ族の残存者を滅亡させるという説では前1世紀とされる。また前3世紀説もあり,それは時代的にアショーカ王の後継者と争ったことになる。両説があるにしても,マウルヤ王朝の衰退とともに発展していった。王統史は一般に30代説であるが,プラーナ,また異写本により29代説・22代・24代など諸説あり,統治年代も460年・442年・411年・300年などの計算になる。第3代のシャータカルニ王のときにはマールワを征服していた。しかし,マウルヤ朝滅亡後,デカン西北部にシャカなどの異民族の諸王が侵入,アーンドラ朝も押されていた。しかし,ガウタミープトラ=シュリー=シャータカルニ王のとき,また強大になった。王は,クシャトラパを西北デカンより駆逐した。王の年代は1世紀末から2世紀初期である。2世紀説がふつうである。碑文には〈サカ人,ギリシア人,パルチア人を滅ぼせる者〉と記されている。碑文による最大版図は,現在の東ラージャスターン州・グジャラート州・マハーラーシュトラ州までだというが,貨幣からは狭くデカン高原全域とされる。彼の子プルマーイも勢力を拡大した。ヴァーシシティープトラ=シュリー=サータカル王は,クシャトラパのルドラダーマンに敗れ,西北デカンを一時取戻され,その後クシャトラパとアーンドラ王朝は西北デカンを回って抗争を行う。シュリー=ヤジュナ=シャータカルは,デカン西北,アラビア海から東デカンに勢力が及んでいた。クシャーナ朝がインド西北部に位置していた以外,中央部一帯に大隆盛であったのはアーンドラ朝だけである。この王家はバラモンの出身ともいわれ,バラモン教を国教としていたが,仏教も並列して信じられていた。ナーシクNasikをはじめ多くの石窟・寺院・祠が丘を削ってつくられた。ガウタミープトラ王の母は,ナーシクの窟院を寄進している。アマラーヴァティーの仏教彫刻もこの時期の作である。海外貿易もしていた。3世紀中ごろ,アーンドラ王朝は衰退し,デカン高原は諸勢力に分裂する。〔参考文献〕中村元『インド古代史下』,1966,春秋社