●安史の乱 あんしのらん
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中国唐代半ばの玄宗期後半に,安禄山・史思明らによっておこされた大反乱(755〜763・天宝14〜広徳7)。則天武后期とそれにつづく中宗韋后や太平公主など女性を中心とする皇親勢力の政治介入を排して即位した玄宗は,科挙出身官僚を重用して「開元の治」と称される太平の世を現出した。しかし,一方では土地所有の不均衡をはじめ,社会的に多様な変化が進行しつつあり,律令体制の建前と現実との乖離が顕在化してきた。この社会変化に対応するため,令外の官である使職が設けられることになる。とくに重要な使職は財政関係と軍事関係のそれである。軍事関係の代表的使職は,兵農一致の府兵制が逃亡戸の増加により崩壊した結果,傭兵による辺境軍団の司令宮として設けられた節度使である。節度使の新設は,羈縻(きび)支配下にあった周辺民族の自立により,唐の世界帝国としてのひろがりが後退し,かつ守勢に転じざるを得なくなった当時の国際環境とも関連した措置であった。玄宗中期に独裁権力を掌握した宰相李林甫は,対抗者の出現を阻止するため,強大な軍事力を有する節度使に,社会的・政治的基盤のない周辺民族出身者を多く任命した。イラン系ソグド人安禄山はまさにその1人である。彼は李林甫だけでなく,玄宗とその寵妃楊貴妃にとり入り,751年(天宝10)までに范陽・平慮・河東の東北辺3節度使を兼ねて強大な軍事力を有するにいたった。同時期,中央では楊貴妃一族の楊国忠が玄宗の恩寵により急速に台頭してきた。彼は主として財政関係の40余の使職を兼ねるにいたった。ともに確たる政治基盤をもたず,その政治生命は玄宗の私的恩寵にのみ依存するという脆弱性のゆえに,両者の対立は必然的に尖鋭化した。中央の楊国忠は,玄宗の恩寵を一身に集中するため,巧みな謀略で長安在の安禄山勢力を次々と排除した。失寵の危惧が頂点に達した辺境の安禄山は,755年,君側の奸楊国忠を除くために范陽で挙兵した。15万人の兵力の中核は,奚・契丹・同羅(トングラ)ら8,000人の安禄山と擬制的親子関係で結ばれたきわめて忠誠心の厚い精鋭部隊であった。反乱軍は河北の平原を一気に南下して,同年12月には東都洛陽を落とし,翌年1月に安禄山は大燕皇帝と称し,聖武の年号をたてた。自らが帝位につくことで,唐朝を完全に否定したのである。756年(聖武2・至徳1)6月には関中の西の守り潼関を突破して長安を占領した。玄宗は四川に落ちのびて退位し,途中の馬嵬駅で護衛兵士の要求により楊貴妃と楊国忠を殺さねばならなかった。このとき皇太子は馬嵬駅で別行して朔方節度使をたより,その鎮所霊武で7月即位した。粛宗である。唐朝は新たに内地要衝に節度使を置いたり,北方遊牧民族ウイグルの援兵を求めるなどしだいに反撃体制を整えたため,反乱側の戦況は不利になっていった。安禄山はいらだち,かつ失明と悪性腫瘍のため狂暴となった。その子安慶緒は父親を殺してあとを継いだが,部下の不満は大きく離反するものが出始めた。安禄山の旧将でトルコ系の史思明は根拠地范陽で自立し,反乱軍は洛陽と河北方面の2勢力に分裂した。757年(載初1・至徳2)9月,唐軍は安慶緒軍を破って長安と洛陽を奪回し,史思明は唐に降服した。しかし唐側の暗殺計画を知って再び反旗をひるがえし,759年(載初2・乾元2)3月,洛陽の安慶緒を殺してその軍を併せ,翌4月に大燕皇帝と称し順天の年号をたてた。この史思明もその子史朝義との不和から,761年(順天2・上元2)2月に史朝義に殺された。史朝義は帝位につくが,反乱軍部将の離反が相いつぎ,唐側の軍事圧力とあいまって,反乱軍は自壊作用を強めていく。762年(順天3・宝応l)9月,ウイグル軍によって洛陽を追われた史朝義は范陽に脱出をはかるが,先に唐にくだって范陽節度使に任じられた李懐仙に殺された。763年(順天4・宝応2)1月のことである。ここに9年にわたる大反乱はようやく平定されたが,この安史の乱は唐代史だけでなく,中国史上の重要な転換点をなすものである。平定直後,乱中に置かれた内地節度使のいくつかに反乱軍降将を任じて,以後の節度使割拠の端をつくり,唐朝の中央集権的支配はもはや回復されることはなかった。税制面では,乱中に軍費捻出のため実施された塩の専売は,貨幣経済を促進し,以後20世紀まで存続することになる。また均等賦課を原則とする租庸調制に代わり,人民の階層分化という現実を容認した上での両税法が施行されることになる。〔参考文献〕E.G.プーリィブランク,本田実信訳『安禄山の叛乱の政治的背景』東洋学報35−2〜4,1952・1953 谷川道雄『安史の乱の性格について』名古屋大学文学部研究論集8,1954
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