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●アングロ=サクソン人 アングロ=サクソンじん

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今日におけるイギリス国民の根幹をなす民族。単にサクソン人とも称せられる。

【起源と移住】本来はアングル人サクソン人ジュート人の3族からなり、低地ドイツ語を話すゲルマンの一派としてドイツ西北部に居住した。長身・長頭・白皙(はくせき)・金髪・碧眼が肉体的特徴とされる。彼らのブリテン島侵入は5世紀中ごろ以降とされている。その原住地は、サクソン人がホルシュタイン地方に、アングル人シュレスヴィヒ地方に、ジュート人ユトランド半島にいたとされる(ベーダ著『イギリス教会史』による)。だが考古学的成果にもとづいた最近の説では、早くからみられるサクソン人の西進とアングル人の南進、および両者の混住が強調されており、ジュート人も4、5世紀には南進してフリースランドからライン川下流にいたと主張されている。したがって彼らの渡来は部族的な区別をもってなされたのではなく、指導力ある人物のもとに雑然と集まってできた集団による移動であったとされるべきである。移動の原因として考えられるのは人口増加と土地不足、またアジアからヨーロッパをねらう諸民族の圧迫である。彼らは初めガリアをねらったが、フランク族との衝突を懸念して目標をブリテン島に転じたとされている。ここは4世紀の初め以来海賊的侵寇によってサクソン人には熟知されていた。彼らは底の浅い長身を操って侵入、テムズ川口・ウォッシュ湾ハンバー川口より河川に沿って内地深く侵入、イングランドの南東部・東部ミドランドおよび南西部・北部を占拠した。先住民のブリトン人による抵抗はあったが、大した効果を収めることなく西方へ圧迫されてしまう。そして6世紀に上記の3地方に王国が誕生、合わせて7王国となり、イギリス史上のいわゆる七王国時代を現出し、イングランドがアングロ=サクソンの国たることを確実にした。その後9世紀の初めにウェセックス王エグバードは一応全イングランドの統一を実現し、ふたつの偉業は孫のアルフレッド大王によって継承され、彼はアングロ=サクソン人の王と称した。

【ノルマン人の支配】他方8世紀末以来デーン人の来襲が顕著となり、アルフレッドもこれと戦って苦労したが、11世紀初めごろにはデンマーク王クヌートの支配が実現、ウェセックス王家の支配は一時中断された。クヌートの死後それが回復され、エドワード懺悔王の治世となったが、彼は無力であったため、諸侯割拠・国内分裂の状態となり、王が没するとノルマンディー公ウィリアム1世の侵入を招くこととなり、ここにノルマン王朝の成立を迎える。なおアングロ=サクソン系の最後の王は懺悔王の妃の弟ハロルド2世であった。“ノルマンの征服”によって、新来のノルマン人が支配階層となり、先住のアングロ=サクソン人は被支配階層となった。社会・国家の封建化はすでに9世紀末以降認められるが、征服王は封建制の再編成を断行、アングロ=サクソン系貴族領主のほとんどを追放して、ノルマン系貴族にとって代わらせている(前者でその地位を存続し得たのは10数人にすぎない)。しかし王はアングロ=サクソン人の慣習を尊重したので、それがコモン=ローの基礎となり得たとされる。エグバードによる統一後にできたシャイア(州)制度も継承された。またアングロ=サクソン語の使用が被支配階層のあいだでつづけられ、支配階層のノルマン=フレンチがそれと融合して今日の英語をつくった。アングロ=サクソンによって培われた伝統が、“征服”のために断絶したとはけっしていえないが、彼らはゲルマン人のなかで文化的におくれた民族なので、ブリテン島移住の当初にはかなりの破壊が行われた。だがその後に顕著な発展があり、とりわけ6世紀末に修道士アウグスティヌスの来訪を契機にキリスト教が復活したことにより、古代文化流入の道が開かれた。ベーダは文化復興の気運が生んだ代表的学者といわれ、シャルルマーニュの宮廷に仕えてカロリング=ルネサンスの大立物となったアルクインはベーダの孫弟子にあたる。アルフレッド大王は学校の設立・法典の編さん・古典の英訳などで文化的功績が大であり、『アングロ=サクソン年代記』も企画した。イギリス文化形成の最初の歩みはアングロ=サクソン時代にあるといえる。


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