●アロー戦争 アローせんそう
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アロー号事件に端を発した清国とイギリス・フランスとの戦争。第2次アヘン戦争ともいわれる。【原因】アヘン戦争の結果,華夷観念に立つ閉鎖的な広東貿易制度は打破され,南京条約以下一連の諸条約によって,清朝中国は欧米諸国に門戸を開かなければならなくなった。イギリスを初めフランス・アメリカなどの資本主義列強は清国に対し,領事裁判権・最恵国待遇・関税自主権の拘束など法的な優位を確保することができた。しかし外国人は,広州・厦門・福州・寧波・上海の5開港場以外は内地立入りを認められず,開港場での居住貿易も中国の旧来の秩序を守ろうとする地方官や民衆とのあいだに,しばしば対立と紛争を引きおこしていた。とくに平英団事件以来社学を拠点とする排外運動が高まっていた広州では,他の4港の開港が比較的順調にすすんだのと違って,外国人は従前どおり商館の狭い居留地に閉じこめられており,広東省域(広州市)内に居住して商業活動に従事する広東入城の問題は,清国・イギリス双方の当事者間のたび重なる折衝にもかかわらず,排外運動の高まりによって紛糾を極めていた。さらに開港後の貿易は,諸外国とくにイギリスにとって決して満足すべきものではなかった。イギリス工業製品=綿糸・綿織物の輸出は,アヘン戦争後一時的には増加したものの1846年には大幅に減少する傾向を示し,中国をイギリス工業製品の無限に豊かな市場とみなす本国産業資本家の神話的期待からは,あまりにもほど遠いものであった。また現地の商人や宣教師は,清朝官憲の圧迫を排除して,さらに利権を拡大することを強く望んでいた。このような状況下でイギリス・フランス・アメリカ3国は,1854年に条約改訂が可能であるという立場から,共同して清国側との改訂交渉につとめたが,なんらの進展もみず,とくに清朝の外交交渉の当面の責任者である両広総督欽差大臣の地位に52年ヨウメイシン※注1※が就いてから,この頑固な保守主義者は,広東の排外運動を利用して対外強硬政策をとり,非協調的態度に終始したので外交交渉は停頓した。こうして局面の打開は,武力行使以外にないとの認識がイギリス始め列強のあいだにしだいに強まった。しかしイギリス・フランスは,当時ヨーロッパでクリミア戦争(1854〜1856)を遂行しており,十分な軍事力を中国に向けることはできなかった。それが終結して中国への武力行使が可能となったとき,絶好の口実となってアロー号事件が発生した。アロー号は中国人所有のローチャ(西洋式船体に中国式帆装を施した)船で,船籍は香港政庁とされ,船長はイギリス人であった。1856年10月8日,広州前面の珠江に停泊中,突然清国官憲の臨検を受け,中国人船員14名中12名が海賊の疑いで拉致されるという事件がおこった。この事件をめぐり,イギリスの広東領事パークスは,本国政府の対清強硬論に影響されていたので,両広総督欽差大臣のヨウメイシン※注1※に対し強く抗議し,アロー号はイギリス船であるから清国官憲の逮捕は不法であり,しかも当時イギリス国旗を掲げていたのに清国官憲はこれを引きずりおろしたと主張して,逮捕されたすべての船員の引渡しと国旗の侮辱に対する謝罪を葉に要求した。これに対して葉は,アロー号は清国人所有の船舶であるから逮捕は正当であり,当時国旗は掲げられていなかったと反論した。事実としては,アロー号の香港政庁への船籍登録期限はすでに満期となっていたのであるが,パークスはあくまでイギリス側の要求の全面的受諾を葉に迫って譲らず,ついに交渉を決裂させた。清国駐在全権使節兼香港総督バウリングはパークスを支持し,現地のイギリス海軍の武力を発動して広州付近の諸砲台を占領し,総督の役所に砲撃を加えた。12月に入って広州の内外では猛烈な排外運動がおこり,外国商人の居留する商館地区はほとんど焼払われた。
【第1次英仏連合軍戦争】イギリス本国政府は,現地当局の処置を是認して開戦を決意し,1857年2月遠征費の協賛を議会に求めたが,アロー号事件に対する出先官憲の処置ならびに武力行使をめぐって賛否両論が激しく対立し,政府提案は上院では支持されたが,下院では否決された。パーマストン首相は下院を解散して選挙に訴え,新議会で信任を受けると清国との戦争を遂行するために,エルギンを特命全権大使に任命し,5月約5,000の兵員を派遣した。同時にイギリス政府はフランス政府に共同出兵を申し入れ,ナポレオン3世は,1856年2月末広西省西北部の西林でフランス人宣教師シャープドレーヌが,知県に逮捕斬首された事件の未解決を口実に共同行動をとることとし,グロを特命全権大使に任命した。イギリス・フランスの共同出兵に対して,アメリカ・ロシアは共同武力干渉には加わらないが,条約改正交渉には参加する態度をとり,アメリカはリードを,ロシアはプチャーチンをそれぞれ全権代表として派遣した。イギリス遠征軍は,中国へ派遣される途中,1857年5月インドでおこったセポイの反乱の鎮圧にむけられたので中国到着が遅れ,ようやく12月になって英仏連合軍の共同作戦が可能となった。連合軍は12月末広州を占領し,翌年1月ヨウメイシン※注1※を捕え広州に占領行政を敷いた。葉はカルカッタに送られ1859年同地で客死した。すでに1857年11月香港に会同していた英・仏・米・露4国代表は,翌年3月上海で清国全権大臣との条約改正交渉をすすめようとしたが,これに対する清朝の応答を不満として4月相次いで北上,白河口に赴いた。しかし,ここでの交渉も清国側代表の権限をめぐって決裂したので,英仏連合軍は5月大沽砲台を占領し,4国代表は北京にすすんだ。清国は6月内閣大学士桂良・吏部尚書花沙納を天津に遣わし,連合軍の武力の威圧のもとで,4国代表のそれぞれと天津条約を結んだ。連合軍はこれらの条約を清帝が正式に承認したことを確かめたのち天津から撤退した。天津条約によってイギリス・フランスは,外国使節の北京駐在,内地旅行権・揚子江航行権,税率改正ならびに通商章程の協定,その結果としてのアヘン貿易の合法化,華中・華北・南満州にわたる貿易港の増加,キリスト教の公認など大幅な権益の獲得に成功し,アメリカ・ロシアもこれに均霑することができた。一方,清朝側においては天津条約の締結をめぐって激しい主戦論が台頭し,とくに外国使節の北京駐在,内地旅行・揚子江航行などの内地開放に対する拒否反応が強かった。北京政府はイギリス・フランスの武力的威圧に屈してともかくも天津条約を締結したが,連合軍の撤退とともに主戦論に押されて条約拒否の方向に傾き,再びイギリス・フランスの武力行使を招くことになった。
【第2次英仏連合軍戦争】天津条約調印の際,1年以内に北京での批准交換が約束されていたので,イギリス・フランスの新任公使はこの任務を遂行すべく1859年6月大沽沖にいたったが,清国側にはなんらの迎接もなく,あえて白河を溯航しようとしたイギリス軍艦は,蒙古の武将サンゴリンチン(僧格林沁)の拠る大沽砲台から猛砲撃を受けて大敗し,使節たちはやむなく上海に引き返した。すでにロシア公使は5月北京で批准をすませており,アメリカ公使は英仏公使と同行していたが,別個な立場をとって清国側のすすめに従い北塘に上陸して北京に入った。しかし謁見の際の叩頭礼を要求されたため謁見を辞して退京し,8月北塘で批准交換を行った。イギリス・フランス両国政府は,再びエルギンとグロをそれぞれ全権大使として対清遠征軍を派遣することを決定した。英仏連合軍は1860年7月末約2万の兵力をもって北京への進攻準備を整え,8月北塘から上陸,大清沽台を攻略して天津にすすんだ。北京政府は大学士桂良・直隷総督恒福を欽差大臣として天津で両国大使との交渉に当たらせたが合意に達せず,さらに9月,通州にすすんだ両国大使と新たな欽差大臣怡親王載垣・兵部尚書穆蔭との交渉も,エルギンの命を受けて国書親呈問題の直接折衝に当たっていたパークスが張家湾付近でサンゴリンチンの軍隊に捕えられ,北京に護送されるという事件がおこって決裂し,連合軍の北京進撃に発展した。連合軍はサンゴリンチンの軍隊を破って北京近郊に迫り,9月咸豊帝は宮廷ならびに権力中枢の大部分を伴って熱河離宮へ避難,皇弟恭親王奕訴が欽差大臣として英仏側との交渉に当たることになった。10月上旬連合軍は,北京西北郊の円明園離宮に侵入して徹底的な略奪を行い,中旬に北京を無血占領し,円明園を焼払い清朝の威信に痛打を加えた。恭親王は,ロシア公使イグナチェフの裏面からの調停工作もあって,ようやく英仏との和平交渉に応じ,エルギン・グロとのあいだにそれぞれ天津条約の批准と北京条約の調印を行った。ここに外国使節の北京常駐が確定し,新たに天津の開港・九竜岬の対英割譲・中国人の海外渡航の公認などが加わった。またロシアは,調停工作の代償として11月露清間の北京条約により沿海州を完全に手中に収めた。天津条約・北京条約によってヨーロッパ列強は,中国植民地化の布石をほぼ完了したのである。
〔参考文献〕矢野仁一『アロー戦争と円明園』1939
板野正高『近代中国外交史研究』1970
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