●アララギ
アジア 日本 AD1908 明治時代
短歌雑誌。1908年(明治41)10月〜正岡子規没後、伊藤左千夫を中心に1903年(明治36)6月、雑誌『馬酔木(あしび)』が刊行されたが、1908年1月をもって終刊。翌月から三井甲之(みついこうし)の編集で「アカネ」が発刊されて、これを維承した。しかし、左千夫と甲之の間には意見の相違を来し、左千夫は旧「馬酔木」同人蕨真(けっしん。本名蕨〈わらび〉真一郎)の出資で、10月「阿羅々木」を創刊した。初め発行所は、千葉県の蕨真方であったが、翌年9月の改巻を機に東京の左千夫方に移し、題字も「アララギ」と改めた。信州で発行していた柿乃村人(島木赤彦)らの雑誌「北牟呂(ひむろ)」が合同したのもこの号からで、実質的な創刊は改巻初号に始まるといってもいい。当時の主な作者は、左千夫・真・赤彦のほかに、長塚節(ながつかたかし)・石原純(いしはらあつし)・篠原志都児(しのはらしづこ)・平福百穂(ひらふくひやくすい)・望月光・民部里静(みんぶりせい)・古泉千樫(こいずみちかし)・斎藤茂吉・堀内卓・中村憲吉・湯本禿山(ゆもととくざん)・蕨桐軒(わらびとうけん)・土屋文明・浅野梨郷(あさのりきょう)らである。歌壇にはそのころ自然主義的な勢力が浸潤していて、わずかに左千夫や節の歌が認められる程度であったが、やがて茂吉・千樫・赤彦・憲吉・卓・文明らの間に新しい動きを生じ、西洋文芸の翻訳を載せたり、阿部次郎・木下杢太郎(きのしたもくたろう)らの寄稿を得るなどして新気運を導いた。しだいに積極的に歌壇諸派との交流も試みるようになったのである。1913年(大正2)左千夫を失ったが、この年『アララギ叢書』の刊行を企て、初めに赤彦・憲吉合著の『馬鈴薯の花』、ついで茂吉の『赤光(しやっこう)』が出て、世間の注目を集めるにいたった。その翌年以来、赤彦が上京して編集に骨を折ることとなるが、写生と万葉主義に本来の路線を定めるのは1915年(大正4)の後半あたりからである。こうして経営も安定化し、1917・18年(大正6、7)ころには歌壇主流誌の位置を占めるようになった。子規直門の岡麓をはじめ、釈迢空(しゃくちょうくう)らも同人となり、写生理論の形成も茂吉・赤彦を中心に精力的に進められたのである。1916年(大正5)以後主要同人の東京を離れることが相次ぎ、とくに有力作家であった茂吉が、1921年(大正10)ドイツに留学してからは、赤彦の独力編集となって、派閥的な結社制度を強化した。このことが一部の人々の反感を招き、1924年(大正13)4月、純・千樫・迢空らが新雑誌「日光」の創刊に参加して「アララギ」を離脱したけれども、赤彦の統率で結束を保って、その歌壇的地位に動揺はなかった。1926年(太正15)赤彦の没後は、茂吉が編集に当たり、1930年(昭和5)文明が代わって、プロレタリア派や北原白秋の「多摩」などの新興勢力に対抗しながら、依然として主導的な地位を維持した。1945年1〜8月休刊を余儀なくされた以外は順調な発行を続け、現在、1984年77巻にいたっている。大正期には、前記の作者のほかに、土田耕平・結城哀草果(ゆうきあいそうか)・森山汀川(もりやまていせん)・藤沢古実(ふじさわふるみ)・竹尾忠告・加納暁(かのうあかつき)・高田浪吉・広野三郎・鹿児島寿蔵・今井邦子・築地藤子・久保田不二子らが、昭和に入って五味保義・吉田正俊・落合京太郎・小松三郎、山口茂吉・柴生田稔・佐藤佐太郎・小暮政次・近藤芳美・宮地伸一・清水房雄・小市己世司らが輩出した。文明に代わって、1952年から保義が編集に当たったが、その没後は正俊が継いでいる。子規を宗とする「アララギ」の、半世紀を越える歴史にはいくつかの曲折もあったが、リアリズムを標榜するその運動の実質には変わるところはない。初期以来「輪講」「合評」など共同研究の形で継続している万葉研究や、子規以下先達の作品研究も大きな伝統をなしている。
〔参考文献〕五味保義「アララギ」文学1956・4
永塚功・大戸三千枝編『アララギ総目次』1967、さるびあ出版
岡井隆『戦後アララギ』1984、短歌新聞社
