●アラビア科学 アラビアかがく
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アラビア科学とはイスラームによって統一された地域−東は中央アジアから西はイベリア半島、南は北アフリカにおよぶ−において8世紀後半から15世紀にかけて、アラビア語で文化活動をした人々の科学をさす。アラビア科学が人類に貢献したのは、ギリシア、ローマの古典科学を翻訳し、これを近世ヨーロッパに伝えただけでなく、数学や化学、地理学など多くのジャンルですぐれた業績を示したが、なんといってももっとも重要なのは中世においてであった。すなわち中世にあっては暗黒のヨーロッパに代わって、古典科学の伝統を継承し発展させたのである。その意味でここにいうアラビア科学とは中世アラビア科学のことをさす。
アラビア科学の語はイスラーム世界における共通言語を使用したことに由来し、実際にはアラビア人よりはペルシア人・ユダヤ人・シリア人・トルコ人らが活躍し、とくにペルシア人によるものが多い。宗教的にもイスラーム教徒だけでなく、ネストリウス派キリスト教徒やユダヤ教徒、サービア教徒なども活躍した。このように人種的にも宗教的にも多様な人々が中世イスラーム圏で共通言語のアラビア語により、あらゆる先進文化を吸収し発展させたのがアラビア科学である。
その内容は古代オリエント・ギリシア・ローマ・ササン朝・インド・中国の諸科学をとり入れた当時としては最高水準の科学であった。このように外国の科学が盛んに輸入・翻訳され、それらを綜合かつ融合して独自のすぐれた科学を創造し発展させることができたのは、イスラーム文化圏が世界の要にあり、当時の東西交通の発達により、東西世界のすぐれた文化が盛んに伝来したためといえよう。
【歴史】アラビア科学の発展はだいだい次の3期に分けることができる。[1]アッバース朝期 8世紀後半〜9世紀、[2]全イスラーム期 10〜11世紀、[3]アンダルシア・モンゴル期 12〜15世紀。第1のアッバース朝期では、アッバース朝の首都バグダードに開花した。この時代にはペルシア・シリア・インドから多くのすぐれた学者たちがバグダードに集まり、多数のギリシア語やシリア語の古典科学の書がアラビア語に訳された。それはやはりアッバース朝の君主たちに第2代のアル=マンスール(在位754〜775)、第5代ハールーン=アッ=ラシード(在位786〜809)、第7代アル=マムーン(在位813〜833)の如く多くの学芸を愛した名君が輩出したためでもあった。
この時代のおもな科学者としては、まずフナイン、イブン=イスハーク・サービト=フン=フッラらがあげられる。アッバース朝期に科学が振興したのは、必ずしもカリフが学問を保護奨励したのみでなく、地方の豪族もカリフにならう人が少なくなかった。いわゆるバター・ムーサー(ムーサーの3人兄弟)といわれる人々は、ムーサー=イブン、シャーキルの息子たちイブン=ムーサー(872/873没)、アフマド=ハサンらをさすが、前掲のフナイン=イブン=イスハークらは、いずれもバター=ムーサーに雇われた人々であった。フナイン=イブン=イスハーク(809/810〜877)はネストリウス派の医師で、医学書を始め、多くの書を訳し、イスラーム最大の翻訳者といわれる。彼はギリシア語からシリア語に訳し、これを弟子がアラビア語に訳したという。その最大の業績は2世紀のガレノスの医学書の大部分を訳したことである。
サービト=フン=クッラ(826/827〜901)はメソポタミアのハッラーンの人で、カリフ=アル=マムーンの建てた観測所で活躍した天文学者だが、同時にユークリッド幾何学、アルキメデス・アポロニオス・エウトキオス(6世紀の数学者)らの翻訳をした。たとえばアポロニウスの『円錐論』第5〜7巻はこのアラビア訳のおかげで今日に伝わっているギリシアの遺産で、イスラーム科学の重要性の一つは、このようにギリシアの学問を今日に残した点にもみられる。
そのほかアラビア錬金術の祖、ジャービル=ブン=ハイヤーンやアラビア代数学の基礎をつくったアル=フワーリズミー、三角法を駆使し、球面三角法を用いて正確な観測をし、ヨーロッパでもアルバテグニウスと呼ばれよく知られていたアル=バッターニー(858〜929)、中世最大の臨床医家アッ=ラージーなどがこの時代の代表的な科学者であった。
第2の全イスラーム期とは、スペインの後ウマイヤ朝・エジプトのファティーマ朝・バグダードのアッバース朝・アフガニスタンのガズナ朝の発展により、西はコルドバ、南はカイロ、東はバグダード・ブハラ・ガズナ等、全イスラーム圏にアラビア科学が発展した全盛朝である。
このアラビア科学の全盛期には、多くの科学者が輩出したが、その代表としてアル=ビルーニー、イブン=シーナー、イブン=アルハイサムの3人をあげておこう。この3人はそれぞれ分野は異なっているが、アラビア科学の全盛期を形成しだ人々であったということができる。まずアル・ビルーニー(973〜1048頃)はフワーリズムの人で、きわめて博学多識であった。天文学・数学を主とし、薬学・鉱物学などにもくわしく、インドの数学・天文学の翻訳も行った。これはインド数学がアラビア数学に影響を与えたことをよく示している。アル=ビルーニーはガズナ朝のマフムードの保護を受けていたのでインドに詳しく、インドの地誌、学問・文化をくわしく紹介した『インド誌』やマフムード王の子マスードに献じた『マスード天文学宝典』などには、彼のすぐれた科学的精神がよく示されている。
イブン=シーナー(980〜1037)はブハラ付近のホルメタントに生まれたペルシア人で、ヨーロッパではアヴィケンナの名で有名な哲学者・名医であった。彼は綜合的組織的精神の権化で、その医学上の主著『医学基準』(アル=カーヌーン=フィ=アッ=ティブ)はヨーロッパでもアヴィケンナの『カノン』として名高く、フランスのモンペリエの医学校では1650年代にまだこの書を教科書として使っていたという。彼の著書は哲学・神学関係が最も多く90部もあり、天文・数学も10部あったという。
またイブン=アルハイサム(965〜1039)はバスラ生まれの数学と実験観察にすぐれた物理学者で、物理学・数学・天文学・医学等多くの書を著したが、とくに『光学』ではその数学的実験科学の精神がよく示され、ベーコンやケプラーに大きな影響を与えた。
第3のアンダルシア・モンゴル期は、まず南スペインのアンダルシアで科学が栄えるが、スペインの勃興とともにその文化の中心は北アフリカのマグレブ地方に移った。他方東方はモンゴルやティムールの支配下に入り、そのもとで科学活動が展開された。この時代の代表的な学者としては、イブン=ルシュド(ラテン名アベロエス)、ナシール=アッディーン=アットウーシーとイブン=ハルドゥーンの3人があげられる。
まずイブン=ルシュド(1126〜1198)はコルドバに生まれ、マラケシュで没した。その著作は哲学・医学・法学等多岐にわたるが、とくにアリストテレスの哲学書のほとんどすべての注釈を著し、西欧ルネサンスに大きな影響を与えた。また13世紀のナシール=アッディーン=アットゥージー(1201〜1274)はイブン=シーナー以後の最大の総合的知識人で、とくに天文学に優れ、イル=ハン国のフラグのもとでマーラーガの天文台長として活躍した。その著『天文学の記憶』はコペルニクスの天文理論の一部をも言及している。また14世紀のイブン=ハルドゥーン(1332〜1406)はチュニス生まれで、有名な『歴史序説』を著してイスラーム世界における独自の社会理論を展開し、その思想は16世紀以後のオスマン朝の政治家たちに大きな影響を与えた。
このようにアラビア科学は15世紀まで順調に発展したが、その後政治的には実践的現実的なオスマン朝がアラビア世界を支配したこと、経済的には欧人の東漸によってイスラーム圏の中継交易が衰退し、アラビアの富が没落したこと、思想的にはイブン・ルシュド以後、ガザーリー的正統神学がイスラームの主流となり、科学思想はその圧迫下にしだいに衰微したことなどがあげられる。これ以後はかえって西欧で高く評価されていくのである。