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●アメリカ独立戦争 アメリカどくりつせんそう

北アメリカ アメリカ合衆国 AD1775 

 1775〜1783 北アメリカの13英領植民地が本国と戦い,アメリカ合衆国として独立を達成した戦争。独立戦争は単に植民地の独立にとどまらず,近代的共和政体を形成した市民革命でもあり,それゆえアメリカ独立革命(American Revolution)と同義に扱われる。独立宣言に示された独立革命の理念は,ラテン=アメリカ諸国の独立運動をはじめ,各地の自由主義・民主主義運動に長く影響を与えた点で,世界史的意義をもつ。

【アメリカ植民地の近代性】本来,英領北アメリカ植民地は,国王から特許を得た会社や領主によって建設され,南のスペイン領植民地のような本国政府による厳重な統制や監督をともなわず,多かれ少なかれ入植者の自治的社会として成立した。早くも1619年,バージニア植民地代議制議会が成立し,つぎつぎに成立した植民地はすべて代議制議会をもつにいたった。本国の法慣習も植民地に持ち込まれ,自由人の人権保障が進展をみた。13植民地は成立の事情・宗教・社会構成・経済活動などの点で多様であったにもかかわらず,こうした政治的自治と自由人の権利保障の点で共通した近代的性格を有し,またその点でヨーロッパの大陸諸国ないしその植民地と異なった。本国から持ち込まれたものは近代的要素ばかりではなかった。バージニア・ニューイングランド植民地およびジョージアを除いては,植民地はいずれも本国貴族の領主植民地として成立し,そこでは身分制度・荘園制・免役地代・長子相続制など封建的要素の移植もはかられた。しかしそれらは,豊かな自由地の存在と労働力の不足という植民地の現実のなかで急速に消滅ないし形骸化し−−この植民地の条件は,一方で黒人奴隷制の発達を促したが−近代的な地主制と自由農民の土地所有が普及するにいたった。小作農民自由農民への上昇,高い労働賃金,不安定だが活発な商業活動に示されたように,階級の固定の少ない,活発で自由な経済・社会状況が出現した。黒人奴隷制を含みつつも,アメリカ植民地は本国以上に近代的な社会へと発展しつつあった。

重商主義規制の開始】アメリカ植民地が人口を増し,その経済が発達するにつれて,本国の国王・植民地領主・大商人は植民地への関心を増した。この結果,王政復古以降,とくにジェームズ2世の時期から,航海条令(1660,1663,1673)による重商主義規制が植民地に加えられ,また王領植民地の増加,植民地行政機関の増設などの形でも,本国政府による統制が強められた。しかしそれらの植民地統制は,諸政府機関の権限の重複や不調整,植民地に赴任した帝国官吏の怠慢や無能力などのために,極めて不能率であった。しかも本国の通商上の利益に重大な障害とならない限り,植民地規制についての“有益な怠慢”が黙認された。つまり,植民地人が航海条令に違反し,密輸を行っても,それによる植民地の富の増大が本国からの輸入の増加につながる限り,大目にみられたのである。それは本国政府の権威の低下につながった。植民人は,形式的で不規律な本国政府の統制に直面して,自らの代議制議会こそが真の彼らの政府だと感じ始めた。

【植民地社会の成熟】18世紀に入ってアメリカ植民地は急速に発展し,同時に本国との相違を一層明確にしはじめた。植民地人口は1700年の約25万から1775年の250万に急成長したが,この間にドイツ人・スコッチ=アイリッシュなどの移民が流入し,植民地はイギリス本国への忠誠心をもたぬ多数の人口を加えた。自治の発展もめざましく,植民地政治の実権は実質的に代議制議会に移り始め,独立前夜には,植民地議会が課税権と公金の支出権を掌握するにいたった。しかも植民地議会は本国議会と異なり,広範な有権者に支えられていた。選挙資格は財産所有者に限られてはいたが,自由土地所有の普及によって,有権者は白人成人男子の50〜75%にのぼった。それゆえ,植民地議会は民衆の意向を無視しえず,本国政府の意を受けた植民地総督が議会を操作する余地も狭められた。植民地議会が反英闘争の中心となる基盤が形成されつつあった。植民地は文化的・社会的にも独立につながる気運を生み出しつつあった。1830〜1840年代に植民地全域に宗教感情の劇的な高揚をもたらした“大覚醒”は,民衆のあいだに宗教的信念にもとづいた道徳的判断力を育て,あらゆる権威への盲従を拒む感情を普及させた。東部海岸地域の支配層に対する西部民衆の反抗や暴動も18世紀中ごろに激化した。それらは基本的に植民地内の地域間抗争ではあったが,なお一面で民衆の反権威的傾向の増大と東部支配層につながる本国の影響力への反発を意味した。植民地人はまた18世紀に,新たな自己認識に達し始めた。彼らは自分たちの社会と文化は,高度に発達した本国のそれに及ばず,単純で素朴ではあるが,反面,より自由で腐敗しておらず,高度に道徳的であると自覚し始めた。こうした“アメリカ人”意識は,彼らの目に発達してはいるが腐敗していると映った本国の支配を拒否せしめるものであった。

【植民地の経済的不満】18世紀に入って植民地経済の発達はめざましく,独立前夜には,イギリスの輸出量の16%,輸入量の12.5%を占めた。この経済発展は,豊かな本国市場,本国からの信用供与や特産品への助成,イギリス艦隊の保護など本国に負うところが大きかったが,なお本国の重商主義規制に対する不満を生み出した。植民地の資本は概して貿易・海運・土地投機に向かい,工業の発達は,造船・製粉・酒造などのほか微弱であったが,なお羊毛条令(1699)・帽子条令(1732)・鉄条令(1750)など製造工業に加えた本国の制限は,それらに関係した植民地人の不満を生じた。貿易面では,植民地はその成長とともに増大した対本国貿易赤字を補うために,とくに利益の多いフランス領西インド産の砂糖(糖蜜)を輸入した。本国は自領の西インドの利益を守るため,1733年の糖蜜条令によって,植民地の外国産砂糖輸入に禁止的関税を課し,このため植民地商人は大規模な密貿易を発展させ,組織的に関税官を買収した。こうして北部・中部植民地経済の一半が違法の取り引きで支えられるにいたり,それは本国の規制法自体を専制的圧迫とみなす風潮を生んだ。通貨規制も問題を生じた。慢性的な通貨(正貨)不足から,植民地政府と土地銀行は紙幣を発行したが,それらは不安定でしばしば経済混乱を招いたため,本国政府は泡沫条令の適用(1741),通貨条令(1751,1764)によってこれを禁止した。しかしそれらの措置は植民地の通貨不足の問題を深刻化し,多大の不満を招いた。また,黒人奴隷制に支えられた南部のタバコ・米などの農業生産は,植民地経済を支える重要な一翼に成長したが,タバコ価格の値下り,土地の涸渇などで経営は行き詰り,貴族的生活を営む南部農場主(プランター)は,本国商人からの莫大な負債に苦しむにいたった。彼らは活路を西部への土地投機に求め,これが本国の西部政策によって阻まれるにいたったとき,彼らは決定的に本国と対立することとなる。要するに18世紀半ば,植民地の経済はイギリス重商主義規制の枠を障害と感じ,より広大な活動舞台を求める段階に到達したのである。

【イギリス帝国の再編成】1763年,フレンチ=インディアン戦争(七年戦争)の結果,イギリスはフランスとの北アメリカ争奪戦に勝利し,第1次イギリス帝国を完成したが,これとともに,アメリカ植民地統治に重大な修正を加える必要に追られた。植民地統治の再編成は,従来からの植民地人の不満をも一挙に顕在化させ,独立革命につながる植民地の反抗を導き出した。イギリス政府がかかえた問題は,七年戦争で生じた莫大な負債,フランスから獲得した広大なアメリカ領土の防衛,および北方と西方の旧フランス領統治の問題であった。西部については,本国政府は1763年の国王宣言によってアレガニー山脈以西への移住を暫定的に禁止し,最終的に1774年,ケベック条令によってこれを集大成した。これはオハイオ川以北・ミシシッピー川以西の地域を王領ケベックに含め,同地域への植民地人の入植や土地投機を禁止したもので,同地域でのカトリック信仰の許容と相まって,植民地人の憤激を呼んだ。他方,財政難に苦しむイギリス政府は,アメリカ植民地防衛のために配置が必要となった常備軍の費用を植民地に負担させようとし,このためにも航海条令の厳重な実施を志した。1764年の砂糖条令は,在来の糖蜜関税よりも税率を引き下げる代わりに,密輸の厳重取り締りによって,関税収入の確保をはかった。“有益な怠慢”の政策は放棄されたのである。

【植民地の抵抗】植民地人の憤激を一挙に高めたのは1765年の印紙条令であった。法律・商業上の証書・証券類・パンフレット,新聞,広告,暦,カルタ,酒類販売許可証などに印紙税を課したこの条令は,在来の関税と異なって内部課税であり,植民地の自治の侵害と感じられ,しかも全植民地の広範囲の人々に影響した。それゆえ各地で民衆暴動が生じ,9植民地の代表がニューヨークに集まって印紙条令会議を開き,有名な“代表なくして課税なし”の原理を表明した反対決議を採択し,また主要な港の商人たちはイギリス商品の輸入停止を決議した。植民地での激しい反対と本国商人の圧力によって,本国議会は翌1766年,印紙条令を撤廃した。しかし本国議会は同時に宣言法を可決し,国王と議会による植民地支配権を明確に確認し,また植民地側の“代表なくして課税なし”の主張−この主張は結局,植民地議会のみが植民地人への立法権をもつ,との主張にいたる−に対し,議員はどの選挙区から選出されても,イギリス帝国全体の代表であり,アメリカ値民地も“実質的”に本国議会に代表されている,と反論した。しかし植民地での本国政府の権威は弱まった。植民地人は大胆な政治論議を開始し,また実力で印紙の発売を阻止し,印紙なしで業務を行わせることに成功した民衆とその指導者は,自らの力に自信を抱き始めた。1767年,本国政府はより抵抗が少ないと思われた関税で歳入を得ようとした。政府はタウンゼンド条令によって,植民地が輸入する茶・ガラス・鉛・塗料・紙に課税し,また同時にアメリカ関税局の再編・強化,海事裁判所の増設,“白紙の捜査令状”の発行などによって密輸の取締りを励行し,初めて関税徴集の実をあげた。本国政府はまた,経費節約のため派遣軍を海岸都市に集め,その兵舎と補給の負担を植民に負わせた(1765,軍隊宿営法)が,これを拒んだかどでニューヨーク議会を停止させた。さらにタウンゼンド関税の収入はとくに植民地在任の帝国官吏の俸給に当てられ,このため彼らの植民地議会からの独立性が強まった。要するに,新関税・関税徴集の強化とともに,植民地への統制は大幅に強化されたのである。反対運動が再燃した。新聞・パンフレットは声高に植民地の自由防衛を叫び,商人たちは再度,本国商品の不輸入協定を結び,輸入や関税徴集を妨害する民衆の実力行使が各地で発生した。マサチューセッツ代議会はタウンゼンド関税を違憲と非難する回状を発し,本国政府からの撤回命令を拒んだため,解散せしめられた。合法的な不満表明の道を閉ざされて,民衆の行動はさらに激化し,関税徴集は事実上不可能となった。“ボストン虐殺”事件(1770年3月)が生じたのはこのときである。イギリス駐屯軍とボストン民衆の衝突で市民5人が射殺され,植民地人は激昂した。1770年4月,本国政府は再び譲歩し,タウンゼンド関税を撤廃した。植民地への輸出の激減が一因であったが,政府の植民地統制の決意は変わらなかった。茶税のみは本国議会の植民地支配権のしるしとして残されたのである。

【反乱の勃発】以後3年間“静穏の時期”が続いた。表面的な安定の陰で,諸植民地を結ぶ通信委員会とサミュエル=アダムズらが組織した地方的規模の通信委員会が,本国政府への抵抗のための連絡網をつくりあげつつあった。いたるところで本国の政府の権威失墜が語られ,いくつかの新聞は公然と独立を論じ始めた。それゆえ,本国政府が植民地支配権の行使を決意するや,対決は不可避となる。1773年,本国議会は茶条令を制定し,赤字に悩む東インド会社に植民地での茶の独占販売権を与えた。同社の茶の価格は,茶税を含んでも,密輸の茶の半額にすぎなかったが,植民地人は独占販売茶税に断呼として反対し,各地で茶船の入港を阻止し,あるいは茶の揚陸を阻んだ。12月16日,ボストン港で“ボストン茶会事件”がおきる。インディアンに変装した急進分子が茶船に乗り込み,大量の茶箱を海中に投棄したのである。本国政府は対決を決意し,強圧的諸条令,別名“耐え難い条令”を制定した。それは[1]ボストン港を閉鎖し,[2]マサチューセッツの自治を剥奪し,[3]植民地で罪を問われた帝国官吏の裁判を本国で行うことを許し,[4]植民地での兵士宿営のために民家を徴発した。さらに植民地駐屯軍司令ゲージがマサチューセッツ総督に任じられ,先述のケベック条令も制定された。急進派の拠点であるマサチューセッツのみを処罰し,反対運動の分断をはかった本国政府のもくろみは,逆に全植民地の反抗を招いた。各地で公然たる反乱が発生し,さまざまの地方委員会が民衆の権威に依拠した新しい政治機構の設立に向かい,国王の権威にもとづいた政府機構は解体し始めた。この状況のなかで,12植民地の代表55名がフィラデルフィアで第1回大陸会議を開催した。大陸会議は植民地の独立をこそ決議しなかったが,強圧的諸条令への実力による抵抗を呼びかけ,全イギリス商品の不輸入・不消費,イギリスへの不輸出を決めた大陸連合の結成を決議した。それらの決定は,各地の民衆組織が人民の名において,植民地の有力者に本国の権威を否認し,アメリカ人民に忠誠を誓うよう,実力で強制することを許した。ここに本国の権威の再建は軍事力以外では不可能となる。

独立戦争の開始】1775年4月19日,ボストン郊外のレキシントンコンコードでイギリス軍と植民地民兵との最初の戦闘が生じ,翌5月に開かれた第2回大陸会議は,ワシントンを総司令官とする大陸連合軍の設立を決定した。大陸会議は,なお独立の意図を否認したものの,〈武器をとる理由と必要性の宣言〉を発し,植民地人の自由と権利を守るための武力抵抗の意味を明確に宣言した。さらに大陸会議は軍備のための紙幣発行,外国との交渉のための委員会の設置を決定し,事実上独立につながる措置をとった。6月,ボストン港を見下ろすバンカー=ヒルの戦いで,急ごしらえの民兵軍がイギリス正規軍に重大な損害を与えると,植民地と本国の対決は本格的戦争の段階に突入した。8月,国王ジョージ3世は,植民地は公然たる反乱状態にあると宣言し,10月には植民地は独立をめざしていると非難した。12月,イギリス政府はアメリカ商船の捕獲を命令,翌1776年l月にはドイツ人傭兵の派遣を決定して,植民地人に残っていた国王への忠誠心をも失わせた。1776年初め,最近本国から渡来したトマス=ペインが,『コモン・センス』を公刊した。直ちにベストセラーとなったこの小冊子は,イギリス国王と世襲王政を公然と弾劾し,〈人間としての権利〉にもとづく独立を説いて,植民地人の独立への決意を大きく促した。1776年春,大陸会議はアメリカの諸港を諸外国に開放し,独立宣言の準備に着手した。独立宣言は,『アメリカ13連合諸邦の万場一致の宣言』として,1776年7月4日に発表され,ジョージ3世の悪政を列挙するとともに,自然法理念にもとづいた独立国家形成の正当性をアメリカ人と世界に訴えた。

 8年間にわたった独立戦争はアメリカが戦った最も長く,最も苦しい戦争であり,かつアメリカ人自身が独立を求める“愛国派”と,これに反対する“王党派”に分かれて戦った内戦でもあった。イギリスの優位は圧倒的にみえた。イギリスは世界最強の海軍と派遣正規軍5万に加えて,3万のドイツ人傭兵を擁し,最大時1万に達した王党派民兵がこれに協力した。ワシントンが動かした大陸連合軍は通常1万を下回り,さまざまの規模の愛国派民兵軍がこれを助けたが,それらは概して素人の軍隊であった。だが,イギリスは大西洋を隔てた広いアメリカ大陸で,各地に散在する民衆軍隊をすべて打破せねばならず,しかも戦争目的に明確さを欠いた。軍事的征服は必要であったが,征服後の統治のためには,苛烈な弾圧や掠奪を慎まねばならず,イギリス軍は征服者兼和解者として臨まねばならなかった。このディレンマはイギリス将兵の士気を減じ,王党派を失望・混乱させた。

独立戦争から国際戦争へ】1776年夏,ハウ将軍指揮の3万のイギリス軍はワシントン軍を破ってニューヨーク市を占領し,ニュージャージーに占領地域を拡大した。1776年末からワシントン軍は局地的反撃に成功したものの,独立の見通しは暗黒にみえた。1777年,イギリスはカナダからバーゴイン軍を南下させ,ハウ軍との協力で,反乱の中心ニューイングランドを分断・孤立させる作戦を立てた。しかしハウ軍は,まず植民地最大の都市フィラデルフィアの占領に赴き,これに手間どって北上の機を逸した。苦戦しつつ南下した8千のバーゴイン軍は,ハドソン川上流のサラトガで1万を超すアメリカ軍と遭遇,1777年10月,ついに降伏した。“サラトガの戦い”は戦争に転機をもたらした。それは,イギリスにアメリカ征服の困難を認識させ,フランスの参戦を促した。フランスは宿敵イギリスを妨害するために,アメリカヘの武器・資金の援助を行っていたが,なお勝利の見通しの立たぬ独立戦争への加担をためらっていた。パリに派遣されていたベンジャミン=フランクリンは,サラトガ会戦後イギリス政府に生じた和解の動きを巧みにとらえ,英米和解の可能性をほのめかして,ついにルイ16世の政府を動かすことに成功した。1778年2月米仏同盟が成立し,フランスはイギリスに宣戦した。1779年スペインがフランスの同盟国として参戦し,1780年にはロシアが武装中立同盟を組織した。ここに戦争の性格は一変した。それはイギリス帝国の内乱から国際戦争に変わり,イギリスは孤立したのである。アメリカの反乱鎮圧は第2義的となり,イギリスの戦略は,重要な英領西インドの防衛のため,南方に向かうこととなる。イギリス軍は南部諸都市を攻略し,アメリカ軍は1780年5月,チャールストンで独立戦争中最大の敗北を喫した。しかしイギリスの南部平定作戦は愛国派民兵軍の抗戦で進展せず,イギリス軍はバージニアのヨークタウンで孤立した。1万7千の米仏連合軍とフランス海軍が海陸からこれを包囲し,コーンウォリスの率いる8千の英軍は,1781年10月降伏した。イギリスの戦略全体が破綻し,アメリカの独立達成は確定的となった。

【講和の勝利】だが戦勝は直ちに講和に結びつかなかった。米仏条約は単独講和を禁じており,ブルボン王朝下のフランスは,共和国アメリカの誕生よりも,イギリスへの報復を願望し,まだイギリスからのジブラルタル回復を望む同盟国スペインに拘束されていた。アメリカの講和条件がヨーロッパ列強の取り引きの犠牲となる危険が存在したのである。しかし渡欧したアメリカ使節団は,フランスに無断でイギリスと交渉し,米仏の結合を弱める可能性を示唆して,極めて有利な講和条件を獲得することに成功した。イギリスはアメリカの独立を承認し,西はミシシッピ川,北はカナダ国境,南は北緯31度までの領土を認めた。フランスはこの英米仮条約を認めるほかなく,スペインもまたこれにならった。1783年9月パリ講和条約が調印された。それはヨーロッパの国際政治を利用してのアメリカ外交の勝利でもあった。

【新共和国の樹立】独立戦争はアメリカ人が新しい共和政体を樹立する過程でもあった。早くも1776年5月大陸会議は,“人民の権威”のもとに新政府を樹立し,国王に発するすべての政治的権限の行使を抑圧せよ,と各植民地に勧告し,いくつかの植民地は新しい憲法の作製に着手した。1777年秋までにすべての植民地がそれぞれの(邦)憲法を作製し,あるいは旧来の特許状を改訂して,共和国を形成した。独立革命の基本的目標は13の独立国の形成であり,また単にイギリス帝国からの独立でなく,あらゆる専制権力の排除をめざした共和制の樹立であった。それゆえ概して各邦の新憲法は,人民を代表する議会,とくに下院の権限を強め,行政長官の権限を削減した。他方,アメリカ全体の中央政府の樹立は革命の基本目標でなかったものの,すでに軍隊をつくり,通貨を発行し,外国との交渉を開始していた大陸会議は,正式の連合政府樹立の必要をも痛感した。1776年7月連合規約草案が大陸会議に提出され,1777年9月各邦に賛否が問われたが,13邦すべての承認によって連合規約が発効をみたのは1781年3月であった。これによって成立した中央政府,“連合議会”は,基本的に大陸会議の延長にすぎなかった。連合議会では各邦が1票をもち,独立の行政府は設置されず,課税権通商規制も連合議会に与えられなかった。最初のアメリカ合衆国は,独立主権をもつ13の共和国のゆるやかな連合体として発足したのである。それは各邦の人民の自由と主権を強く保証したものの,内政・外交上の多くの困難と動揺を生じた。より強固な合衆国の形成は,1787年の憲法制定会議を待たねばならなかった。独立戦争の過程は近代的共和制の樹立という意味で,アメリカ内部の市民革命であり,すでに形骸化していたものの免役地代,長子・限嗣相続制などの封建遺制の廃止も法的に確認された。10万人近い王党派がイギリスに帰国ないしカナダに亡命し,概して社会の上層部を占めた彼らの財産が国王の土地・財産とともに没収され,市民に売出されたことも,社会の再編成を促した。奴隷制度は存続したが,共和主義理念の高揚のなかで,奴隷制度を社会の自然的秩序とみなす考え方は根本的修正を迫られた。大陸会議は早くも1774年,奴隷貿易の廃止を唱え,いくつかの邦がこれに続いた。北部では奴隷制度廃止の動きが進み,19世紀初頭までに奴隷制度はほぼ消滅した。独立革命とそれが掲げた共和主義の理念は,少なくとも,アメリカ人が自国で到達すべき理想と,世界に対する彼らの独特の使命感を規定した。

〔参考文献〕今津晃『アメリカ革命史序説』1960,1982,法律文化社

今津晃『アメリカ独立革命』1967,至文堂

E.S.モーガン,三崎敬之訳『合衆国の誕生』1976,南雲堂

斎藤真・五十嵐武士編『アメリカ革命』1978,研究社