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●アヘン戦争 アヘンせんそう

ヨーロッパ 英国 AD1842 ハノーヴァー・ウィンザー朝

 アヘン貿易をめぐるイギリス・諸国間の紛争に端を発した1840〜42年の戦争。

【原因】18世紀に入ってからようやく定期的となったイギリスの対清貿易は,その独占的な担い手である東インド会社により,18世紀前半を通じて中国茶の輸入,銀・毛織物の輸出を主内容として行われ,とくに茶と銀との商品交換が圧倒的比重を占めていた。イギリスへの茶の輸入は,18世紀初めに約6万ポンドあったのが,同世紀末には約400倍とめざましい発展を遂げた。これは当初上流社会に行われていた飲茶の風習がしだいに一般化し,さらに産業革命以後は工場労働者の慰安に不可欠とされ,茶が国民的飲料となったためであるが,1785年以降の飛躍的発展は,1784年のいわゆる転換法で,茶税が当時の120%から一挙に12.5%に引き下げられたことによる。輸入茶に対する高率課税は,アメリカ独立戦争(1775〜83)のため,イギリス政府が軍事財政を補う必要上とった措置であるが,反面,ヨーロッパ大陸諸国による大量の中国茶のイギリスへの密輸入を促進し,会社貿易を危機に陥れる結果ともなっていた。転換法以後の茶貿易の大発展によってイギリスの対清貿易は,ヨーロッパ諸国中絶対的優位を確保するにいたった。同時に茶貿易の発展は,対価としての銀の供給を増大させ,ここに茶買付資金としての銀の調達が多年にわたって会社の最大の懸案となった。産業革命までイギリスの国民的工業製品であった毛織物は,中国であまり需要されなかったので,資金の大部分は銀で決済されなければならなかったからである。しかし銀の輸出は,かねて産業資本家の要求を代弁する議会内の反東インド会社派から激しい非難を受けていたばかりでなく,18世紀後半になると植民地七年戦争(1756〜62),さらにアメリカ独立戦争によって実際上困難となったので,会社は自らの手でアジアの地域において買付資金を調達しなければならなくなった。会社はその打開策として,まず地方貿易(インド在住のイギリス人が会社からライセンスを受けて従事していたインド・中国・東南アジア相互を結ぶ貿易)から為替手形による資金提供を受ける方法をとり,地方貿易への依存度は年々増大した。また,1780年代後半から主として地方貿易によるインド綿花の中国輸出が増加し,18世紀末以後イギリスの最大の輸出品となった。さらに注目すべきは,インド産アヘンの輸出である。会社は1770年代前半からインドにおけるアヘン政策に着手し,18世紀末にベンガル産アヘンの製造・販売の独占権を手中におさめ,専売金の3分の1を財政収入,3分の2は会社収入とすることとし,1820年代からはマルワ産アヘンの大量買付をすすめた。これらのアヘンはすべて外国貿易に振り向けられたが,中国貿易に関する限り,会社は清国の禁令を犯すことによって茶貿易が阻害されることを恐れたので,自ら正面に立たず,地方貿易商人の手を通じて中国に密輸されたのである。アヘンはすでに1720年代ポルトガル人によってマルワ産のものが中国にもたらされており,華南沿岸地方では,清初からアヘンを吸飲に用いる風習が行われ,1729年(雍正7)には,初めて吸飲用アヘン販売の禁令が出されたが,薬剤用アヘンの輸入は18世紀末まで認められていた。しかし,地方貿易商人によるインド産アヘンの流入が18世末紀からしだいに増加するようになったので,清朝は1796年以降しばしば勅令によってアヘン輸入を禁止した。それにもかかわらず,1800年には4,500箱以上に達し,さらに1820年代以降はマルワ産アヘンが加わるようになって,中国のアヘン市場は加速度的に拡大され,1832年には2万箱以上に達した。アヘン貿易のこのような発展の過程で,1823年以後アヘンは綿花を凌いで最大の輸出品となった。綿花・アヘンの輸出の発展によって,1820年代後半以降,会社の茶買付資金の懸案は完全に解消されたばかりでなく,逆に中国からの銀流出が進行した。この情勢は,東インド会社の対清貿易独占権が廃止され,イギリスの中国貿易が自由貿易に移行する1834年以後ますます顕著となった。それまでの地方貿易商人は自由貿易商人に転身し,会社の茶貿易を継承するとともに,アヘン貿易を華南沿海地方から東・北方海岸へと拡大し,1835年には3万箱以上,1839年には4万箱以上と輸入を激増させ,中国からの銀流出を激化させた。18世紀末から19世紀30年代にかけてのたび重なる禁令にもかかわらず,アヘン貿易がますます発展したのは,広東官僚をはじめ地方官が禁令の励行につとめず,密輸が官僚の黙認のもとに公然と行われ,しかも吸飲の悪習は,上は皇族・貴族・官僚から,下は胥吏・兵卒にまでおよぶという支配階級の腐敗に乗じたものであった。1830年ごろまではアヘンに関する論議は,道徳的・保健的害悪の面が主であったが,それ以後になると銀流出に伴う財政・民生上の危機状況がもっぱら強調されるようになり,銀流出をいかにして阻止するかが清朝最大の政治問題と化した。1836年(道光16)6月の太常寺小卿許乃済による弛禁止奏を契機として,これに反対する厳禁論が台頭し,1839年6月,画期的な鴻臚寺卿黄爵滋の吸飲者死刑論が上奏されるにいたり,道光帝はアヘン禁絶の決意を固め,厳禁の主張と取締実績において最も卓越した湖広総督林則徐を同年末欽差大臣に任命し,広東において,アヘン貿易の禁絶に当たらせることにした。一方,イギリスの対清貿易は,18世紀半ばからアヘン戦争にいたるまで,外国人がカントン=システムと呼んだ広東貿易制度のもとで営まれていたが,貿易港は広州一港に制限され,外国商人は「防範外夷規条」という厳しい外国人取締規則の束縛を受け,清国の外国貿易を独占する公行を通じてのみ遂行されていた。これは華夷思想にもとづく伝統的な朝貢貿易体制にほかならず,清国が西洋諸国に対し一方的優位に立つきわめて恩恵的かつ閉鎖的な貿易であった。イギリスは対清貿易の発展とともに,貿易上の諸制限の緩和・課税の軽減・貿易港の増大を要求して,1793年マカートニー使節団を,1816年には対清貿易に対する清国皇帝の保護と保証を得るためにアマースト使節団を派遣したが,いずれも清朝の全面的拒否にあい屈辱的な退去を重ねなければならなかった。自由貿易に移行した1834年に,イギリス政府は新たにネーピアを貿易監督官として広東に派遣した。彼は本国政府の外相パーマストンの訓令に従って,両広総督との対等交渉を試みたが失敗に終わり,武力以外に両国関係を打開する途のないことを本国政府に訴えてマカオに没した。武力の必要性をネーピアに強調したのは自由貿易商人であり,彼らは本来的には本国産業資本のために,その工業製品たる綿糸・綿織物の市場を中国に開拓すべき役割を担っていたが,本国工業製品は,現実には中国農村工業のつくり出す土布=南京木綿の壁に阻まれていたので,実質的には依然アヘン商人として銀の獲得をはからねばならず,清朝の取締りには買収と武装で対抗しながら,アヘン市場の拡大に躍起となっていた。しかもアヘン貿易は,イギリスのインド経営の財源確保の上からもとうてい止めるわけにはいかなかった。ここにおいて自由貿易商人は,本国産業資本の中国市場開拓の要望を背景として,その障害をなす中華的・閉鎖的な広東貿易制度の打破をめざし,そのための武力行使を本国政府に働きかけたのである。

【経過】イギリスの本格的な対清武力発動は,1840年4月以後であるが,欽差大臣林則徐の広州着任を契機として,清国・イギリス間の対立が始まったとすれば,アヘン戦争の経過は3段階に分けられよう。第1段階は,林則徐の強硬なアヘン禁圧措置を中心とする対英抵抗政策によって特色づけられる。林は1839年3月10日広州に到着すると,自らアヘン貿易の実態を周到綿密に調査した上で,3月18日すべての外国商人に対し,アヘンの即時引き渡しと,今後アヘンを中国に持ち込まないこと,もしこれに違反したらアヘンは没収し犯人は死刑に処されても異存はない旨の誓約書の提出を命じ,軍隊を動員して外国商人を彼らの事務所たる商館内に抑留する強圧措置をとった。マカオにいたイギリスの貿易監督官チャールズ=エリオットCharls Elliotは,林の措置を激しく非難し,本国政府に急速かつ断乎たる対応を訴えたが,広州の商館に帰着するとイギリス商人と同様厳しい封鎖のもとに置かれ,ついに林の命令に従って,5月21日までにイギリス商人のアヘン2万箱以上を引き渡した。林は,アヘンの引き渡しが完了すると商館の封鎖を解き貿易を再開するとともに,没収したアヘンを虎門の海浜で塩水に石灰を混じえて廃棄処分し,清朝の厳然たる禁圧態度を内外に宣揚した。しかしエリオットは,イギリス商人を商館に封じ込め彼らのアヘンを強制的に没収した林の措置を不当として強く抗議し,イギリス船の広東入港を禁止するとともに,すべてのイギリス人を伴ってマカオに退却した。ただイギリスの船貨は,アメリカ船によって広州に運ばれており,一時途絶したアヘン密輸もまもなく復活し,沿岸水域で従前通り行われるようになった。イギリス人がマカオに退却してまもなく7月7日,九龍でイギリスの水夫が酒に酔ったあげく林民林維喜を殴打して死にいたらしめた事件がおこり,林が加害者の引き渡しを要求したのに対して,エリオットは自国民に対する裁判権は貿易監督官にあるとしてイギリス船上で裁判を済ませ,加害者の引き渡しを拒否した。両者の確執はいよいよ深まり,林は,マカオおよび在港船舶上のすべてのイギリス人に対し,物資の供給を遮断して威圧を加えるとともに,マカオのポルトガル官憲に迫ってイギリス人をマカオから追放させた。エリオットは,すべてのイギリス人とその家族を率いて香港の船上に移った。その後,イギリス側と清国側とのあいだにはしばしば発砲・応戦の衝突が繰り返された。このような事態の推移のあいだに,イギリス政府はエリオットの処置を是認し,対清強硬方針を固め,1840年4月下院で対清遠征軍の派遣を決定した。同年6月戦艦16隻,輸送船・武装汽船等32隻・陸兵約4,000人からなるイギリス遠征軍は,艦隊司令官ブレマーJ.J.Gordon Bremerに率いられて広東沖合に到着した。遠征軍の総指揮官はCh.エリオットの従兄弟ジョージ=エリオット/A>GeorGe Elliotで,首席全権委員を兼ね,Ch.エリオットは次席全権に任命されていた。G.エリオットは,本国政府の訓令に従って,珠江口を封鎖したのち北上して舟山島を占領,寧波および揚子江口の封鎖を行い,さらに北上して8月白河口沖に到着し,直隷総督キゼン※注1※を通じてイギリス側の要求を示したパーマストン外相の書簡を北京朝廷に送り,紛争解決の交渉を求めた。この交渉は大沽で行われたが,結局イギリス側が清朝の要望を入れ,改めて係争の現地広東で会談することとし,遠征軍は南旋した。この間イギリス遠征軍の威力に驚倒した清廷は,林則徐の強硬措置の不善を責めて彼を免職し,代わってキゼン※注1※を欽差大臣に起用して妥協策への転換をはかった。これからがアヘン戦争の第2段階で,キゼン※注1※の主和政策をもって特色づけられる。南航の遠征軍は,11月末マカオに到着したが,このころG.エリオットが病気の理由で辞任したので,Ch.エリオットはただ一人の全権委員となった。11月末広州に着任した欽差大臣キゼン※注1※は,前任林則徐の罪状摘発にあたるとともに,ひたすらイギリス側の歓心を買うことにつとめ講和条件の緩和をはかったが,エリオットは少しも譲歩せず交渉が香港割譲の点で行き詰まると,翌41年1月7日沙角・大角の砲台を攻略して,1月20日川鼻でキゼン※注1※とのあいだに仮協定を結び,香港の割譲・600万ドルの償金の支払・両国官憲の対等交際・広東貿易の再開を約した。林則徐の抵抗政策が挫折し,キゼン※注1※の主和政策も投降に帰着したのち,アヘン戦争は皇帝の主導による第3段階に入るが,それは清国側の連戦連敗の局面である。道光帝はすでに前年末湖南・四川・貴州の軍隊に広東出動を命じていたが,沙角・大角両砲台失陥の報を受けて1月27日対英宣戦を布告し,皇族奕山を靖逆将軍に任じて広東反攻作戦を推し進めた。キゼン※注1※は免職されて厳罰に付されることになった。広東での戦闘は2月下旬に再開され,断続的に推移したが,広州周辺の砲台はほとんどイギリス軍に占領され,5月下旬には広州陥落寸前にたちいたったので,5月27日奕山はイギリス側と,清軍増援隊の広州からの撤退・600万ドルの贖城費の支払いなどを条件とする協定を結んだ。この和約の直後の30〜31日に,省城北方の三元里一帯の民衆が武装して,協定により撤退するイギリス軍の1部隊を包囲攻撃して危地に陥るといういわゆる平英団の事件がおこったが,地方官の説得で解散した。しかしこの事件は,その後の広東の排外運動の高揚に大きな影響を与えた。一方イギリス本国政府は,Ch.エリオットが訓令を忠実かつ厳格に遂行せず,紛争の解決に手間どっていることを不満として4月更迭し,ポティンジャーHenrY PottinGerに代えた。ポティンジャーは8月10日マカオに到着すると,本国政府の新たな訓令に従い,徹底的な武力行使によって清朝を威嚇する方針をとり,直ちに北方に向けて大規模な作戦を開始し,8月下句に厦門,10月中に定海・鎮海・寧波と相次いで占領し,12月から翌年1月にかけて内地の余姚・慈谿・奉化まで攻略した。ポティンジャーはイギリス軍が寧波で越冬しているあいだに,42年1月末から2月にかけてマカオ・香港に帰り,インドからの増援部隊をまった。道光帝は41年10月皇族奕山を揚威将軍に任じ,翌年3月浙江において大反撃作戦を試みさせたが,かえって大敗した。イギリス軍は5月,駐防八旗兵の熾烈な抵抗を破砕して乍浦を占領,6月上海を攻略した。ポティンジャーは,このころ到着した増援軍をもって7月揚子江と大運河の交差する要衝鎮江を攻略し,北京への食糧・重要物資の輸送ルートを断った。ついでイギリス軍は8月南京に向かい,8月14日を期限として攻撃に移ろうとしたとき,清国側は城壁に白旗を掲げて降伏した。降伏後の講和交渉は,清国側がイギリス側の要求条件をすべて原則的に容認したことによって,わずか3日で終わり,8月29日揚子江上のイギリス軍艦コーンウォーリスCorn-wallis号において,清国代表欽差大臣耆英および伊里布両江総督牛鑑と,イギリス代表ポティンジャーとのあいだに南京条約が調印され,ここにアヘン戦争は終結した。

〔参考文献〕矢野仁一『アヘン戦争と香港』1939

范文瀾『中国近代史上冊』1947

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