●アナール学派 アナールがくは
ヨーロッパ フランス共和国 AD
フランスの歴史学雑誌「アナール,経済・社会・文明」を中心として,ゆるやかな結束のもとに形成された歴史学派。この雑誌は,1929年,当初のタイトルを「経済社会史年報」として発刊され,第二次世界大戦中に数度にわたって表題をかえたのち,1946年以降,現在のタイトルで1年6分冊のペースで刊行しつづけている。アナール派の名は,この雑誌にもとづいてはいるが,必ずしも寄稿者全員が学派に属するわけではなく,個々の歴史家によって態度はまちまちである。したがって,この呼称には多くの誤解が伴いがちであることを,あらかじめ念頭に入れておきたい。1929年の創刊時の指導者は,二人の卓越した歴史家,リュシアン=フェーヴルとマルク=ブロックであった。かれらの共通の意図は,19世紀末からフランス歴史学界を支配してきた,伝統的歴史学を覆えすことであった。通常,第三共和政史学の名で呼ばれるこの歴史学は,実証的手法を強調しながら,そのかたわらで,フランス国民史学としての狭量さと,政治的事件の編年史への偏重が著しかった。フェーヴルとブロックによる批判は,ようやく戦後になって同調者を多く見出し,第二世代というべき歴史家によって発言力を行使するようになる。F.ブローデル・C.モラゼ・G.フリードマン・E.ラブルースらの歴史家を列挙しうる。とりわけ,ブローデルの1953年初版の大著『フェリペ2世時代の地中海と地中海世界』は「アナール」誌周辺の歴史家にとって記念碑となった。第三世代の歴史家は,1970年代以降,あいついで問題作を世に出した。J.ルゴフ,E.ル=ロワ=ラデュリ,M.フェロー,R.マンドルー,A.ビュルギエール,J.ルヴェル,G.デュビーらを中心とし,年齢的にも広きにわたっているが,学派としての輪郭線は,それだけに,かえって不鮮明になっているともいえる。戦後におけるアナール派の形成と発展は,いうまでもなく,学問状況全体とかかわっている。かれらは,戦後のマルクス主義にたいしては,党派的にも理論的にもアンビバレントな立場をとっており,部分的には,構造的マルクス主義に多くを負いながらも,伝統的な解釈にたいしては批判的である。また,人類学のめざましい発展については敏感に対応しており,“歴史=人類学”なる概念が提起されるほどである。
アナール派の発展の背景には,戦後にパリに創設された「国立高等研究実技学院」の制度的保証があった。同学院の第六部門(のちに独立して,現在では,社会科学高等研究学院)は,歴史学を含む多数の研究者を擁し,豊富な研究費と組織的効率,そして若い世代の研究者の育成によって,アナール派の拠点を提供した。知の制度化との批判をうけつつも,70年代以降,科学研究の一つのモデルとみなされている。
さて,アナール派歴史学の方法的規準としては,その徐々の形成の結果として,目下のところ,つぎのいくつかの項目のもとに理解するのが妥当であろう。第1に歴史は個々の事件の経過としてではなく,全体として理解されなければならない。その全体とは,個々の要素に意味をあたえる体系の意味であって,実体としての全体ではない。この視点は,始祖たちが受け継いだデュルケーム社会学に近く,近代科学の個体主義への批判を含んでいる。またこの視点のゆえに,マルクス主義との親近性と葛藤とが生じたともいえる。第2には歴史学にとって重要な対象は,めまぐるしく変化する短期的事件ではなく,長期にわたって変化しない(もしくは,ゆるやかに変化する)事象である。地理的自然・気候・エネルギー,そして,経済・社会の深奥において作用している労働・慣習・人口・心性などに,その具体的客観を見出そうとする。したがって,彼らの仕事は,しばしば一村落や一地方の数百年にわたるゆるやかな波動的変化を対象とすることになる。第3は日常的なものにたいする着目である。人間生活において,経常的に繰り返され,一見すると卑俗なものと考えられがちな諸価値をとりあげる。衣食住や健康(病気)・死・祭儀・家族・環境などを課題として掲げたとき,表層的な制度,法律の規定とは異なった像が描写されると考える。これに付随して,日常的なものの営みにかかわる女性・子供・老人,さらには,社会内の周域におかれた人々(マルジノー),などの社会的境位と意味とが,あらためて浮上してくることになろう。また日常的なものは,従来使用されてきた文字史料が十分に語ってくれないところから,口承資料・図像・塑形物などの広汎な資料を歴史学研究に導入することにもなる。第4には,心性(マンタリテ)の歴史である。心性とは文学化され体系化された理論・思想ではなく,それの基底にあるとともに,社会行動や日常生活のうちで援用する,心的態度のことである。自然・聖俗・異界・他者・制度等々にむかいあう態度のうちに,歴史のキー概念を求めようとする。心性の研究は,民衆文化の独自性の確認とともに,学識文化や社会制度との対抗関係の認識をも必要とすることになる。第5には,以上とは異なって手法上の規準であるが,数量化があげられる。膨大な歴史資料から数量化されうるものを抽出し,これの数学的処理によって,全体的傾向と局部的偏異を確認することができるものと考える。この作業は,初期から試みられており,ことにコンピュータ処理を積極的に手法化し,集団作業によって,迅速に結論を導くことができるものとする。物価・人口・租税・貿易などはこのような数量化作業に好適な分野である。以上のような方法的規準は歴史学の革新に有効な武器をあたえるものであった。しかし,その問に欠陥として批判されたり,未達成であったり,また新たに登場した問題点がいくつか指摘できる。1980年代中葉の段階で列挙しておこう。第lには,当事者の弁明にもかかわらず,フランス以外の歴史世界について,十分の適用が行われていない。ことに非アジア世界に関しては,N.ワシュテル『敗者の想像力』(1971)など少数の例外はあるが,一般的には,手薄である。第2には,アナール派手法が,もっとも有効に作動したのは,中世,アンシャン=レジーム期についてであり,19世紀以降に関しては,有効性が疑われている。ことに,国家権力の強大化に伴って,政治的イデオロギーが左右するところの多い現代世界については,長期性・日常性・心性などの分析装置は少なくとも,前近代社会と同一ではありえないであろう。第3には永年,伝統史学への批判によって排斥してきた政治事件史に,方法的読みかえを加えたうえで,あらためて歴史学内に位置を認めるべきだとの主張が行われている。事件(エヴェヌマン)は歴史の本質であって,視角によっては,十分に歴史のダイナミズムを開示しうる場でありうるというのである。第4には,従来も配慮されてきた人間諸科学との連帯・交流について,その可能性と困難とが同時に指摘されている。精神分析・神話学・システム理論など方法的に純化された諸学とアナール派歴史学とが,かつての構造主義理論の場合のように,豊かな連携を実現しうるかどうか,予断は許さない。第5に,アナール派歴史学の一部の人々は,自国の初・中等学校歴史教育問題にコミットしている。これは現代の市民的教育にとって歴史的知見が占めるべき位置をめぐる,啓蒙的議論の一環としてであり,歴史家の社会的責任を意識したものとして注目される。
フランス国内において,アナール派歴史学は“新しい歴史学”とも称され学界内から,一般読書人にまで広い影響をあたえている。しかし同時にフランスの外においても,諸国に刺激をもたらし,アメリカとイタリア,スペインのラテン系諸国には,いちはやく自国史・外国史の手法として受け入れられ始めた。イギリス・西ドイツ・東ヨーロッパ・日本などでも歴史学の新手法として歓迎されつつある。
〔参考文献〕ル=ロワ=ラデュリ,樺山紘一他訳『新しい歴史』1981,新評論
福井憲彦編『歴史のメトドロジー』1984,新評論