●アッカド朝 アッカドちょう
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前3千年紀の後半にサルゴン(1世,在位前2370ごろ〜前2316ごろ。なおサルゴンは『旧約聖書』にみられるヘブライ名で,正しくはシャルーキン)によって建てられ,最初のメソポタミア統一を実現したセム系アッカド人の王朝。アッカド人は,初めシリアの砂漠・草原地帯で遊牧生活を送っていたが,シュメール地方の北方アッカド地方に定住し,シュメール文明を吸収しつつメソポタミアにひろがっていった。このアッカド人を統合して王朝を建て,メソポタミアに最初の統一国家(アッカド王国)を建設したのがサルゴン1世である。彼は,初めシュメール人の都市国家キシュの宮廷に仕えていたが,王の代官として新市アッカドを建設したのを機にアッカド人を集めて立ち上がり,ウルク王ルーガルザゲシを破ったのを手初めに,シュメール人の都市を次々に征服し,自ら「シュメール・アッカドの王」と称した。彼はさらに,東南方ではエラム人,北方ではシュバリ人,西方ではアムレ人などを征服,こうして彼の版図は,東は「日の出の地」エラムから西は「日没の地」シリアまで,南はペルシア湾から北はアッシリアまでの全域にわたった。治世55年に及んだサルゴンの死後,彼の事業は子のリムシュ,ついでその弟マニシュトゥス,そしてサルゴンの孫ナラ・ム=シン(在位前2291〜前2255ごろ)に受け継がれた。ことにナラム=シンは,即位後シュメール・アッカドの全域にわたって発生した反乱を平定するとともに,再び四隣を征服して祖父サルゴンの遠征事業を再現し,自ら「四界の王」と称した。彼はまた「アッカドの神」として神格化され,以後諸王は「アッカドの神・四界の王」を公式の称号とした。サルゴンを初め,これらアッカド朝の諸王がこのようなめざましい軍事的成功を収めた理由は,遊牧民特有の優秀な軍事組織と,彼らが自在に駆使した強力な弓兵隊にあった。サルゴンは「日々彼の前で食事する」5,400の親衛常備軍を養ったといわれる。一方,行政面では,諸王は中央集権的な官僚政治によって統一国家の維持につとめた。こうしてアッカド朝のもとでメソポタミアに最初の中央集権が成立した結果,両川の全面的統制も可能となり,農業生産力が急速に増大,交通や商業も容易となり,度量衡の単位も「アッカドのグル」を基準とするのに統一され,メソポタミアの経済的統一が促された。王都アッカドに港が築かれ,アラビア沿海の物資をペルシア湾から直接アッカド地方に運ぶことができるようになった。また諸王の遠征の結果,地中海東岸からメソポタミアに及ぶ大通商圏が開かれたことにより,アッカドは金属や宝石,木材や香辛料などの交易で大いに賑わった。アッカド朝が大版図を維持することができたのは,強力な軍事力とアッカドに集中されたこの富によるものであった。しかし,新興セム族の武威を四方に輝かしたアッカド朝も,やがて不断の遠征や,その帝国的支配に対するシュメール諸都市の度重なる反乱のために国力を消耗しつくし,それに乗じてイランのザグロス山脈方面から南下してきた山地民族グティ人によって,ついに滅ぼされるにいたった(前2230ごろ)。この統一王朝の支配のあいだに,メソポタミアではシュメール・セム両民族の融合がすすみ,文化の上でも各方面に新生面が開かれた。マニシュトゥス王の閃緑岩の立像や,ナラム=シン王の戦勝碑などに代表されるアッカド芸術は,それまでのシュメール芸術にはみられない力強い作風を示している。またアッカド人はシュメールの楔形文字を採用したが,言語はセム語のアッカド語を保持し,これを王国全土に通用され,やがてアッカド語が古代オリエントの国際語となる契機をつくった。彼らはまた,軍隊や商人たちの活動を通してシュメール文明を四方に伝え,シュメール文明の国際化という大きな役割を果たした。