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●阿蘇信仰 あそしんこう

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 『隋書』の「倭国伝」に,〈阿蘇山あり。其の石,故無くして火起り,天に接する者,俗佐って異となし,因って祷祭を行う〉と記しているから,すでに7世紀初めには,火山の霊異に対する祷祭が行われていたことが知られる。とくに火山部の岩に関心が寄せられているが,この巨岩柱が,おそらく健磐龍神(たけいわたつのかみ)として神格化されたものであろう。本来は,文字通り,健磐立神であろうが,しだいに神霊地の信仰が強調されるようになると,健磐龍神とされるようになったと考えられる。『筑紫風土記』の逸文には,〈頂に霊(あや)しき沼あり〉とその存在に注目しているが,平安朝に入るや,司雨神としての性格を強めていった。『日本紀略』に,〈比の神,亢旱の時,祈ればすなわち雨を降す。国を護り民を救うに,これに頼らざるはなし〉として823年(弘仁14)に,封戸2,000戸を寄せている。840年(承和7)には健磐龍神は従四位上勲五等から従二位に叙せられている。阿蘇谷の開拓する人々にとっては,阿蘇山は,ときには大噴火して山麓の地に火山灰を降らせ,農作物に大きな被害を与える恐しき山であったから,人々はつねに物忌して農耕のさまたげにならぬように祷祭したのである。またこの山は,白川などの水源の山であったから,火神であるとともに水神の性格が付与されていくのである。この神々を奉斎したのは,阿蘇谷の豪族,阿蘇君であった。843年(承和10)には,河内の平岡神社の神主とともに,阿蘇神社の神主は,把笏を預からしめられている。延喜年間には阿蘇友成が大宮司に任ぜられ代々その職に任ぜられることになった。阿蘇氏は健磐龍神の子,速瓶玉命(はやみかたまのみこと)の子孫と称し,阿蘇国造に任ぜられてきたものである。『古事記』によれば,健磐龍命は,神武天皇の子,神八井耳命(かむやいみみのみこと)の後裔とされていて,九州の火君・大分君・筑紫の三家君らと同族であると称している。中央の多(意富)氏とも同族というが,神八井耳命は,自らを忌人つまり司祭者と述べるように,この神八井耳命の子孫とされる氏族は司祭者性格が濃厚である。阿蘇氏の本拠は,カルデラの東北隅の一ノ宮町あたりで,ここに国造神社が祭られ,また長目塚古塚を筆頭に,中期から後期に及ぶ古墳が造営されていた。阿蘇氏が朝廷と結びつきを示す史料の初見は,6世紀初めの『宣化紀』であるが『阿蘇家家系』には,阿蘇の宇志瓶乃君(うしみかのきみ)は允恭天皇の朝に奉仕して“阿蘇直”を名のり,その甥の馬甘(うまかい)は,雄略朝に,穴穂部直を名乗ったという。つまり,5世紀代に大和政権に服属し,国造としての地位を確保していったものと思われる。律令時代になると,阿蘇真理子(まりこ)は阿蘇評督に任ぜられ孫の平田麻呂は,光明天皇に仕え,阿蘇擬夫領外従七位上阿蘇宮司に叙せられている。847年(承和14)には,国造神社も宮社に列せられ,阿蘇氏も位階をすすめられ,しだいに私営田領主として成長し,阿蘇谷より進出し各地に荘園を所領するまでにいたるのである。

【阿蘇神社の祭礼】阿蘇神社の信仰にかかわる祭祀については,『阿蘇社年中神事次第』や『阿蘇社四季神事諸次第』(『阿蘇家文書』によれば,阿蘇特有の神事がいくつかある。その一つが,1581年(天文9)ごろまで行われたという“下野(しもの)の神事”である。旧暦2月初め卯の日に大神宮を初め宮司たちが,阿蘇の鷹山(たかやま)と下野の馬場で猪や鹿を射て神前に供えた。下野で健磐龍命がつねに遊猟したという故事によるもので,伝説では源頼朝の富士の狩の作法は,これにならったものという。同じく旧暦2月の中の己の日には「田作り祭」が行われ,いわゆる“祈年祭”に相当するものであろう。旧暦6月26日には御田植祭(おんだ祭)が行われるが神輿にむかって苗をなげ,神輿の屋根に多くとどまれば豊作とされた。旧暦7月6日から9月8日までの神事は“火焚の神事”で12,3歳の乙女が毎日3度の垢離をとり,神座の下で火を焚き,精進祓70余回,散米9斗9升9合を行うものでおそらく阿蘇のきびしい霜の害を防ぐ神事であろう。

〔参考文献〕田中卓「古代阿蘇氏の一考察」(『高千穂阿蘇』所収),桜井勝之進「阿蘇神社の祭祀形態」(同上),原田敏明「高千穂,阿蘇の地方宗教的性格」(同上)

杉本尚雄『中世の神社と社領』

井上辰雄『火の国』

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