50音順    検 索

●安土城 あずちじょう

アジア 日本 AD1576 室町時代

 織田信長が琵琶湖の南岸の安土山に築いた壮大な城で,天守閣を中心とする構成は近世城郭の規範となった。

【歴史】信長が安土に城を築き始めたのは,1576年(天正4)のことである。この年の正月中旬に安土城造営のための奉行を命じ,4月1日から石垣を築き始めている。安土の地は東海・北陸をはじめ東から京都へ上る陸路および琵琶湖上の水路を押さえる要衝の地で,信長はここに城と城下町を新たに築いた。同年9月には,信長は安土に仮の御殿を建てて移り,直接工事を監督するようになる。城の中心は城山の上にそびえる大天守閣で,それまでの城にはみられないほどの雄大な建築であった。天守閣の造営が始められたのは翌年(1577)の8月で,25日には柱立の儀式が行われ,11月3日になって屋根が葺かれたと伝えられている。『安土日記』によると1579年の正月25日に京都町奉行村井貞勝と林秀貞が天守閣を見物しているから,この頃には天守閣はおおかた完成していたとみることができよう。天守閣を初め城内の諸建物ができあがって信長がこの城に入ったのは,この年の5月11日である。それから2年ほど後の1581年7月には安土城の天守閣と惣見寺にたくさんの挑灯を吊って盂蘭盆会を行い,琵琶湖に映えるその様子はすばらしい眺めであったと記録されている。この年の9月に安土城の作事に携わってきた大工・絵師などに褒美が与えられ,翌1582年の正月には安土城が完成してから初めての年賀の儀式を行っているので,1581年中にすべての工事が終わったと考えられる。この5重の天守閣を中心とした信長の居城も,1582年6月には焼け落ちてしまう。この年,信長は西国の毛利を討つために豊臣秀吉を先鎗として派遣し,自らも兵を率いて安土城を出立した。6月1日,京都の本能寺に宿泊した信長は,翌2日の早朝明智光秀に襲われて討死する。この知らせを聞いて安土城では一同退去し,5日には光秀が入城するが,取って返した秀吉を迎え討つために出陣した光秀が13日に敗れて果てると,安土城に火が放たれて15日には焼け落ちてしまった。その後城地は放置され,山上に天守台その他の石垣をとどめるだけで,今日に至っている。

【建築】安土城には前例のない大規模な天守閣がそびえ,天守閣の下の本丸には御幸の間・南殿を初めとする御殿が立ち並んでいた。天守閣は,東西および南北ともに17間(1間は7尺=2m12cmくらい)ほどの不整形な石垣の上に建っていた。外観5重,内部は石垣の中の穴蔵を含めて7階であった,と太田牛一は村井貞勝と林秀貞の拝見記によって『安土日記』に書きとどめている。『安土日記』によって天守閣の形式をみると,次のとおりである。まず,高さは16間半。外側は漆で黒く塗り,瓦は小口を金銀で飾っていた。最上階である5重は周囲に高欄のある縁がめぐり,柱は金,その下の4重目は8角形であった。ルイス=フロイスの『日本史』では,最上階は悉く金,その他は白壁に黒漆を塗った窓で,ところによって,赤,青であったと伝えている。内部は穴蔵の上の1階から最上階の6階までに多くの部屋があり,床・違棚などのある座敷もあった。襖や壁は金地の所もあり,狩野永徳一門によって梅・唐の儒者・釈門十大弟子などが描かれていた。また,最上階の縁の天井には,龍が描かれていた。天守閣の拝見記は,太田牛一によってさらに『信長公記』に収められ流布した。この安土城の天守は近世城郭における天守閣の濫觴と認識され,17世紀後半に大工池上右平正次によって『信長公記』にもとづいた復原図がつくられたのを初めとして,江戸時代には1858年の奥村得義,昭和にはいって土屋純一以下古川重春,桜井成広などの復原図が次々に発表されている。近年は内藤昌によって池上正次の指図の現代的な図化が試みられ,これに対して宮上茂隆が反論し,さらに新しい復原を提案するなど話題を呼んでいる。天守閣のほかでは本丸御殿の御幸の間が,檜皮葺で障壁が金地であったことがわかるだけである。

01

02