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●安土宗論 あずちしゅうろん

アジア 日本 AD1579 室町時代

 1579年(天正7)日蓮宗と浄土宗とのあいだで行われた宗論。宗論とはおのおのの教義の優劣を決するために行われる討論のこと。安土宗論では日蓮宗が浄土宗に敗れたが,この宗論は織田信長が日蓮宗を弾圧するために企図したものといわれている。1294年(永仁2)龍華日像の上洛によって開始された日蓮宗の京都・関西方面への布教活動は,着実にその成果を伸張させ,室町時代の中ごろには,日蓮宗は洛中に21の本山を有する教団に発展した。1536年(天文5)の天文法華の乱によって日蓮宗は洛中を追放され,いったんその勢力を衰退させたが,1542年(天文11)帰洛を許されて以後,徐々に勢力を復興させていった。こうした日蓮宗勢力の存在は,比叡山や一向一揆の存在と並んで,当時全国制覇をめざしていた織田信長にとって,排除しなければならないものの一つであった。1568年(永禄11)信長は足利義昭を奉じて上洛し1571年(元亀2)比叡山を焼き打ち,ついで1573年(天正1)から一向一揆への攻撃を開始し,同時に高野山をも攻撃した。信長によるこれら一連の仏教教団弾圧の鉾先は,日蓮宗にも向けられることになった。日蓮宗天文法華の乱によって受けた打撃を省み,一揆的行動を慎まなければならないことを痛感し,1575年(天正3)各本山相互の和合を確認する盟約を定めた。この盟約の眼目は自由勝手な宗論を禁じて信長の分国における抑圧を避けようとしたところにある。しかし反面,宗論を行う場合は一宗の代表が公の場においてこれにあたることも定めているから,全体としては宗論を重視し,折伏(仏教信受のあり方を厳密に規定し,それに相違する姿勢を論難して改めさせる化導法)主義を標榜する性格のものでもあった。盟約にみられる両面の性格は,当時の日蓮宗の状況を反映したものといえよう。すなわち,盟約に従って活動を限定した者もあったし,折伏主義による弘通活動を展開した者もあった。とりわけ,普伝日門は信長の移住によって新興都市として急速に発展した安土城下に弘通活動を行い,多大な成果を納めたという。こうした新興の気風と折伏的弘通活動は信長の目にとまるところとなったが兵力による弾圧は,日蓮宗が自重して動かないために有効とは考えられなかったらしく,前述の如く日蓮宗が重視していた宗論の場で,敗北させて打撃を与えようと宗論が企てられたという。以下宗論の企画と推移について概説する。安土城下における日門の活躍は,とくに浄土宗の人々に非常な反響をもたらした。浄土宗の聖誉貞安はこの状態に危機感を抱き信長に訴えたらしい。信長はこれを好機として貞安に宗論を計画させた。貞安は上野国より霊誉玉念を安土に招へいした。玉念は安土で説法を始めたが,その聴衆のなかに,日門の教化を受けた大脇伝助・建部紹智の2人がおり,玉念の所説に不審を申し立てた。玉念は2人に返答せず,帰依の僧を呼べといい,また2人は返答のできない玉念を説法の座から引きずりおろしたという。これを浄土宗は信長に訴えた。信長は直ちに京都から日蓮宗の代表を安土に呼びよせた。1579年5月27日,両宗の代表は安土の浄厳院に集まり,宗論が始まった。日蓮宗からは仏心院ニッコウ※注1※・常光院日諦・久遠院日淵・法音院の4人,浄土宗からは霊誉玉念・聖誉貞安・信誉洞庫・一心院助念の4人が参加した。また判者として南禅寺銭叟景秀・伴僧稷西堂・因果居土・法相宗の仙覚坊が列席し,信長の名代として織田兵衛尉信澄,奉行の長谷川竹秀一・菅谷九右衛門・堀久太郎が列席した。問答はすすめられていったが,浄土宗側から「四十余年未顕真実の文を以て破せば方座第四の妙の一字を捨るか」との問が発せられた。「四十余年未顕真実」とは『無量義経』(『法華三部経』の開経)の文で,日蓮宗が依経とする『法華経』の最勝を記する文である。しかし,以上のことばは虚言で,教義学の用語にはない。日蓮宗側はこれに戸惑い,再度質問を発して,『浄土三部経』が方便の教えであることを決定した上での質問か,と浄土宗に詰め寄った。浄土宗側はこれに答えなかったので,さらに日蓮宗側が質問を重ねると,ついに閉口してしまった。これによって日淵が奉行に浄土宗側が言い詰まったことを述ベ,日諦が「問答の法なれば袈裟を給はらうずる」といったとき,玉念が無言で立ち上がり,「勝ったり」とさけんだ。これを合図に戸外にいた人々がなだれこみ,日蓮宗側の列席者から袈裟をはぎとり,ニッコウ※注1※・日諦・日淵,外で待っていた日門・大脇伝助を捕えた。この結果日門・伝助は直ちに首をはねられ,建部紹智も後に首をはねられた。日蓮宗側には詫証文を書くことが強制され,ついに京都の日蓮宗各本山連署の証文,ニッコウ※注1※ら3人連署の証文の二つの詫証文を提出させられ,罰金が科せられたのである。この処置によって日蓮宗は物心両面にわたって大打撃を受け,京都の日蓮宗の長老たちは,権力者に対して従順・寛容な態度でのぞむようになっていった。こうした風潮のひろがりは,後におこってくる『法華経』未信の権力者からの供養を受けるか否か,という「受・不受」の対立の遠因ともなったのである。

〔参考文献〕立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上,1964,平楽寺書店

辻善之助『日本仏教史 近世篇1』1952,岩波書店