●アショーカ
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前274/272/273〜前236/230/232 阿育阿輸柯,無憂。マウリヤ(MaurYa)朝の第3代。すなわちチャンドラグプタ,ビンドゥサーラにつぐ。マガダ(MaGadha)国のナンダ(Nanda)朝を滅して,マウリヤ朝を興したチャンドラグプタは,西はアフガニスタンから東はベンガル湾まで,北インドを支配した統一国家をつくり,西北インドからギリシア人の軍事勢力を一掃した。アレキサンドロス王後,西アジアを征服したシリアのセレウコス1世と対決,そのインド侵入を阻止,講和後,西のヘレニズム文化と正式に接触する。アショーカ王はその事業を完成させた。【王の伝記】『ディヴィヤーヴァダーナ』のなかのアショーカーヴァダナとそれに対応する漢訳の『阿育王伝』『阿育王経』『雑阿含経』(第23巻,第25巻),およびスリランカに伝わる史書『マハーヴァンサ』に伝記が書かれている。それに,いわゆるアショーカ王の大摩崖詔勅・小摩崖詔勅・大石柱詔勅・小石柱詔勅碑によっても,より実証的資料が得られる。そこは自分の使節の派遣先のギリシア系の諸王の名があげられ年代決定に役立っている。
伝説では,王はビンドゥサーラ王とチャンバー市出身のバラモンの娘である一王妃のあいだに生まれた。父と彼は仲たがいをして,都パータリプトラから,はるか遠いタクシャシラーという西北インドの最重要拠点に左遷のようにして送られるが,反乱を平定して人望は厚かった。即位をめぐる諸説は,北伝では,父王の遺言で王位を継ぐべき王子スシーマと争い,勝って王位を得る。南伝では,父から与えられたウッジァイニーの行政権を放棄して,都の危篤の父のもとに来て長兄スシーマをふくめて異母弟99人を殺して即位した。北伝で,即位後,従順でない大臣500人を殺す。その他,王の暴逆像が浮き彫りにされている。これらの伝説は,王位継承をめぐる一般的な当時の凄絶な騒動劇であることを差し引いても,仏教帰依の前と後との劇的対照を強調するあまりの誇張があると思われる。王の仏教への帰依の伝説も複数である。自分の殺害した長兄の息子の出家者としての姿にうたれたとか,乞食の比丘が,さまざまな奇跡をみせ,王に菩提心をおこさせたことである。多くのアショーカ王碑文の説がより史実に忠実と思われる。王は,東南インド,現オリッサ州のカリンガ国を征服し,マウリヤ王朝に併合する。武力戦争で,10万人が殺害され,その他の死者,捕虜の数はそれを上回る惨状に深く感じ,悔恨の情に動かされいっそう深く仏法に帰依した。その後,仏法を愛と平和の法と考え,それを行政面に反映させようとした一種の政教一致であった。しかし一宗教の仏教を超えた普遍的な理想主義的な法を念頭に置いていた。アウリヤ王朝の始祖以来の戦争による拡張政策がカリンガ征服をもって終わる。最大版図は,北東はカシミール,北はネパールのカピラバストゥ,東はベンガル,西は,現グジャラート州のカーティアーワル,南はマイソール州チタルドゥルグやマドラス州クルノールに及ぶ。社会福祉事業を行う。医療施設・飲料水・宿泊所・道路・灌漑施設・薬草園・井戸などを帝国内各地に設けた。ブッダガヤー,ルンビニー,カピラヴァストウなどに仏跡巡礼をし,塔・石柱などを建て,寄進をし,僧伽との関係も密にした。摩崖および石柱詔勅碑に統治方針と尊厳を表したが,仏法と理想主義的普遍的精神を説いた。シリア・エジプト・マケドニア・キレーネ・ギリシア・ビルマ・スリランカに使節を友好と布教のために派遣した。法の精神教示とその実践の監督の任で教法大官が設けられた。王の尽力により仏教の世界宗教化,東南アジアへの仏教伝播,東西文化の接触が行われた。仏法帰依後,諸思想・諸宗教に寛容。王の晩年は不明。
〔参考文献〕中村元『インド古代史』上1963下1966,春秋社
山本達郎『インド史』1960,山川出版社