●足利氏 あしかがし
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清和源氏。源義家の第3子義国の次男義康は父の住んでいた下野国足利荘をつぎ,足利氏を称した。【鎌倉幕府と足利氏】義康は保元の乱に源頼朝の父義朝とともに後白河天皇方について戦功を立てた。その不義兼は,頼朝の挙兵に加わり,北条時政の女を娶って頼朝と相婿となり,平家滅亡後は御家人として上野介になった。足利学校を始めたのも義兼といわれる。その子義氏は,泰時の女を妻とし,承久の変には大将軍泰時の副将として東海道を攻め上がった。
義氏の子泰氏は,丹後守・宮内少輔となり,泰時の子時氏の女を妻とした。その子頼氏が家をついだが,そのほかの子は斯波・澁川・石堂・一色などの諸氏の祖となり,これより先に分かれた仁木・細川・畠山・岩松・吉良・今川などの諸氏とともに,足利氏の一族として大きな勢力を築き上げた。
頼氏は,治部大輔に任ぜられ,上杉重房の女を妻とした。その子家時は,式部大夫・伊予守となり,六波羅探題北条時茂の女を妻とした。かれは35歳のとき腹を切って死んでいる。今川了俊の『難太平記』によると,先祖義家の置文に7代の孫に生まれかわって天下を取るとあるのに,7代目の家時はそのことの果たせないのを嘆き,3代のうちに天下をとることを八幡大菩薩に祈って自刃したとある。これは後になって作為された話であろうが,足利氏には源氏の一門という自負心が流れていて,北条氏に屈従できない想いが欝積していたことは否定できない。家時の子貞氏は,讃岐守となり,上杉重房の子頼重の女を妻とし,足利尊氏・直義が生まれた。1323年(元亨3)10月の北条貞時の13回忌に,執権高時らとともに貞氏は法華経を書写調達したとき,大抵の人は呼びすてにされているのに,貞氏は〈足利殿〉とあり(円覚寺文書),かれが幕府に重んぜられていたことが知られる。
【室町将軍家】貞氏の子尊氏は,後醍醐天皇の勅をうけ,大波羅探題を滅ぼし,建武の新政に重用されたが,武家政治の再興をはかって反旗をひるがえし,1336年(延元1・建武3)光明天皇を擁立して幕府を開き,初代の将軍となった。尊氏の子義詮は,父の死後2代将軍となり,政権の安定につとめた。その弟基氏は鎌倉公方として関東の政務を行い,その子孫が後をうけた。義詮の子足利義満は3代将軍として南北朝の合一に成功,幕府の基礎が初めて定まった。義満の子義持は,9歳で4代将軍となり,初めの15年間は義満が権を振い,その死後初めて政を親からとって義満の弊政を改め,幕府の安定につとめた。その子義量は17歳で5代将軍となったが,3年で病死し,義持はその継嗣を定めることなく死んだ。そこで義満の子で天台座主となっていた義円が還俗して,義教と名を改めて6代将軍となり,かれに反抗した鎌倉公方足利持氏を滅ぼし(永亨の乱),将軍の権威の確立につとめたが,赤松満祐のために殺された(嘉吉の変)。
義教の子義勝は,父の死により8歳で7代将軍となって2年で死去し,その弟義政が8代将軍となり,在職23年の久しきに及んだが,幕府財政の窮乏の中で驕奢な生活を送り,末年にはその子義尚と弟義視との間に継嗣の争いを生じて応仁の乱を誘発した。義尚は9歳で9代将軍となり,父義政が戦乱の間に風流に耽っていたのに対し,幕府の威信の回復につとめたが,25歳で死去し,義視の子義稙が10代将軍に迎えられた。 このころから戦国の乱世に入り,将軍は管領権臣によって廃止され,名のみの存在と化した。細川政元は義稙を廃して,堀越公方政知の子義澄を11代将軍とし,大内義興は義澄を伐って義稙を再任させ,細川高国はまた義稙を伐って,義澄の子義晴を12代将軍に立てた。三好長慶は義晴の死後その子義輝を13代将軍に立てたが松永久秀に殺され,義澄の孫義栄が14代将軍となる。
織田信長は義栄を討ち義晴の次子義昭を15代将軍としたが,1573年(天正1)にこれを倒し,室町幕府は238年で滅亡した。
〔参考文献〕田中義成『足利時代史』1922,明治書院
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