●足利学校 あしかががっこう
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鎌倉時代に下野国足利荘五箇郷村(現足利市)に設立され,武蔵国金沢学校(金沢文庫)とともに中世関東における二大金字塔の一つとして光芒を放ち,1868年(明治1)まで約600年間の歴史を有する学校である。現在の足利学校遺跡図書館はその旧跡である。足利学校の創立については,奈良時代に遡る国家遺制説・平安初期に遡る小野篁説・鎌倉初期に遡る足利義兼説・室町時代に始まる上杉憲実説などがあるが,鎌倉時代,足利義兼創建の鑁阿寺(ばんなじ)の教学活動に源を発し,鎌倉末期までに創立されたものである。創立後約100年で一時衰微したが,1432年(永享4),上杉憲実が足利荘を管理してから再興され,鎌倉円覚寺僧快元が中興第1世庠主(校長)に任命されてからしだいに盛大になり,7世紀九華時代にはことに盛んになり,北は奥羽,南は琉球にいたる全国から来学徒があり,教育内容の新しさと学徒の社会的活動の著しさとによってますます有名となり,宣教師たちを通じて海外にまでその名が伝えられ,坂東の大学として注目されるにいたった。教育内容は易学が中心で,漢学・国学・医学・兵学および仏学など広い範囲に及んでいたが,基本的性格は実学性にあり,卒業学徒は,戦国武将の帷幕にあって軍陣・用兵に貢献するのみでなく,富国強兵の戦国大名の領国経営のブレーンとなった。他方また,地方寺院の住持となったり,地方民の教師として村夫子・郷先生と称されて地方文化・教育面に活躍し,医療にもあたった。学徒には年少者も含まれたが,多くは17〜18歳から30余歳が多く,いずれも相当程度の学力をもち,修行をへた者が多く,高等専門学校としての性格であった。宣教師たちが足利学校を指して総合大学・学院と称したのは,以上のことによる。ただ,こうした足利学校の形態は,わが国中世の寺院学校・対校(黌)にも共通的にみられることが指摘される。中世の足利学校は,9世三要が1591年(天正19),豊臣秀次の命令で貴重な書籍・什器を搬出し,白らも京都に上がり,次いで徳川家康に近侍して伏見円光寺を中心に没するまで足利の地を離れることになってからは中世足利学校は終焉を告げた。1602年(慶長7),正式に10世庠主に就任した寒松時代には来学徒は多く,盛況をみせたが,その後,年をへるにつれて衰微の度を加え,教学活動面では一般寺院同様の寺子屋,あるいは郷学の形態がみられるようになった。他方,聖堂・祈祷所・書院・学察・文庫などの堂宇は,洪水・火災などで非常に朽廃し,学領の収入も減少した上,堂宇の保全・復旧のために経済的困窮は極点に達した。この間,庠主は年筮の献上などの義務を遂行することを通して幕府の庇護を得,学校の存続を図っていた。一方,庠主および有志のあいだに教学活動の活発代と堂宇・施設の復旧の努力がつづけられた。16世月江・17世子溪,および18世清郊の活動や仙台藩儒者松川岐山の時習館計画による学制改革,および蒲生君平の協力は教学活動の復興意図によるものであり,足利を中心とした住民による講書会の開催・富籤・頼母子講の開催は書籍の増加と講書活動の活発化を意図したものである。以上の意図と努力にもかかわらず,幕末維新期には,近世足利学校の衰退はその度を加え,極限に達する状況であった。幕末期全国的趨勢として足利地方には寺子屋・家塾の普及が著しくなり,教学活動面の足利学校の地位は低下した。その上,1861年(文久1)の町内火災によって大門は焼失した。加えて経済的困窮も著しくなった。かかるなかで隣藩館林藩士岡谷繁実の学校復興運動が展開され,やがて1867年(慶応3),左大臣近衛忠房を通して朝廷への復興運動となった。足利藩士相場朋厚またこれと行動をともにしたが,不成功に終わった。かかる後をうけて藩主戸田忠行が王政復古・明治維新の社会体制と新理念にもとづく新構想の国学校建設の建白にいたり,1868年8月,裁許を得て新学校の設立となり,足利学校が消滅した。〔参考文献〕川瀬一馬『足利学校の研究』1948,講談社
結城陸郎『金沢文庫と足利学校』1959,至文堂
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