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●足尾銅山 あしおどうざん

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 栃木県西部・上都賀郡足尾町にある日本屈指の大銅山。日本近代最初のまた最大規模の公害,足尾鉱毒事件によって知られる。

 江戸時代初期,1610年(慶長15)に発見され,翌年幕府直営の足尾銅山として出発した。1670年ころから80年代半(寛文〜貞享年間)にかけて30万貫(1,125t)から40万貫(1,500t)の生産量に達し,このころ全盛時代を迎えた。周辺も生産高の上昇に比例してにぎわいをみせ,“足尾千軒”と呼ばれるにいたった。やがて衰亡にむかい,1810年前後(文化文政年間)にはほとんど廃鉱状態に落ち込んだ。明治維新後,1877年(明治10),古河市兵衛の経営する古河鉱業に譲渡され,本格的に生産が再開した。1880年代に技術的な改良と水力発電所の設置により飛躍的に生産量を伸ばし,1891年(明治24),1500万斤(9,000t)を数え,全国銅山の首位に立った。そののちも技術改良が進み,また第一次世界大戦後盛んに小鉱山,鉱脈を買い集めて規模をひろげた。戦前段階で鉱道の総延長は1,000kmを超え,敗戦時約57万tの銅を産出していた。1970年(昭和45)においても,粗鉱量43万tを数えている。

 足尾銅山は巨大な生産量を誇り,富国強兵路線を採用する日本近代化の国策に沿って大きな貢献を成し遂げたが,同時に多くの問題点をもかかえていた。なかでも労働環境としての飯場制度と,近隣農村から東京にまで直接間接に悪影響を与えた足尾鉱毒事件の二つが注目されるべきであろう。飯場制度は,鉱山や工事に従事する労働者をハンバと通称される寄宿舎に強制的に居住せしめ,ほとんど監禁状態にして長時間,かつ苛酷な労働に従事せしめるやり方で,労働者側には自由な選択権はほとんどなかった。

足尾鉱毒事件】足尾銅山は利根川支流である渡良瀬川(わたらせがわ)の上流河谷にある。この地理的な条件はひとたび鉱山より汚物や毒物が発生すれば,きわめて大きな範囲に害が及ぶことを容易に推察させる。明治中期,足尾銅山の生産量が高まるとともに,鉱石処理に伴って派生する鉱毒が大量に渡良瀬川に流れ込み,渡良瀬一帯の漁業や農業に壊滅的な打撃を与えた。このときの大きな社会的反響が足尾鉱毒事件と呼ばれるが,現在にいたるまで事態の根本的解決は得られず,なお坑木として多くの木が伐採され,鉱石精錬から派生する亜硫酸ガスによって全山美しい自然が失われ,荒廃したままとなっている。

 すでに1880年(明治13)ごろから,渡良瀬川の魚類がおびただしく死にはじめ,漁業民らの不安をひきおこした。やがて1888年以来,渡良瀬川沿岸の農業が大被害を受けるにいたった。上流にある足尾の鉱石処理が原因であることは明らかであった。ひきつづく大水害によって被害はさらに大きくなり,また利根川全流域に影響を及ぼすことになった。農漁業の領域だけでなく,沿岸住民の健康にも深刻な影響が現れ,彼らの不安は高まった。栃木県はすぐ渡良瀬川の漁業を禁止し,一方吾妻村が1889年(明治22)銅山の採掘停止を上申し,県選出の立憲改進党代議士・田中正造は帝国議会で熱心にこの問題を取り上げ,世論に訴えつづけた。政府もほうっておくわけにいかず調査を約束し,また1897年(明治30)鉱毒防衛工事命令を出し,渡良瀬川治水計画を立てるなどしたが,問題はいっこうに解決しなかった。生業である農漁業をつぶされ,自らの健康の不安にさらされる渡良瀬下流住民たちはしばしば上京して窮状を訴え,1900年(明治33)2月“兇徒嘯聚事件”をひきおこすなど,しだいに抗議行動は激しさを加えていった。国会での活動に限界を感じた田中正造はついに1901年(明治34),外出中の明治天皇に訴状をかかげて渡良瀬川下流,谷中村などの惨状を訴えるにいたった。有名な天皇直訴事件である。しかし,1904年,大洪水の折,これを契機として谷中村の廃村が強行されたのである。なお古河家の総支配人は志賀直哉の祖父,直道であった。

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