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●アジア=アフリカ諸国人民連帯会議 アジア=アフリカしょこくじんみんれんたいかいぎ

AD1957 

 第1回会議は1957年12月26日から翌1958年1月1日にかけてアジア26カ国,アフリカ19カ国,合計45カ国からの代表500余名の参加を得て開催された。この会議は九つの決議と四つのアピール・勧告を採択し,それに加え“カイロ宣言”と呼ばれる大会宣言を行った。カイロ宣言は,これに2年先立つ,「アジア=アフリカ会議」の発表した“バンドン十原則”を人民レベルで確認したものであった。またこの会議は宣言や決議などを実行する常設機関として“アジア=アフリカ連帯理事会”と“アジア=アフリカ人民連帯常設書記局”を設置した。この会議は[1]アジア・アフリカ諸国の連帯運動を政治の分野から経済・社会・文化までの広範なものとしたこと,[2]実現のための国際的組織を確立したことなどの意義を有した。

 こうした人民連帯運動の端緒となったのはインドのニューデリーで1955年4月6日から10日にかけて開催された「アジア諸国民会議」であった。この会議には15カ国221名の参加があり,周恩来・ネルーの提唱した“平和五原則”の支持,ジュネーブ協定の完全実施・軍事同盟・軍事条約・軍事基地の反対などを決議した。しかし運動の中心はアジアにあったことは否めず,その運動の輪が,アラブ圏と一部アフリカに広げられるのは第1回アジア=アフリカ諸国人民連帯会議まで待たなければならなかった。このように人民連帯運動の広がりという意味でも,この会議は画期的なものであったが,その開催地がエジプトのカイロであったことでもわかるように,中心がアラブ圏へ移行するにとどまっていたことも事実である。

 しかし1960年前後からアフリカの独立運動が活発化するに伴い,アフリカからの参加は増加し,第2回会議は,それを反映して,ギニアのコナクリで1960年4月11日から15日にかけて開かれた。この会議は新興アフリカ諸国のリードにより,反植民地主義を鮮明にし,“コナクリ宣言”を採択した。また「アジア=アフリカ人民連帯機構」の新規約を決定し,この規約に従って,理事会・執行委員会・常設書記局が設置された。書記局はカイロに置かれ,初代書記長にはアラブ連合のユーセフ=エル=セバイが選ばれた。アフリカの新興独立諸国の運動は,“コンゴ動乱”にもみられるごとく反動と分断によって圧迫を受けることになるが,そのなかで1963年2月,新興独立国であるタンガニーカのモシで第3回会議が開かれた。この会議は前回のコナクリ会議の反帝・反植民地主義を再確認する一万,キューバのカストロの求めに応じて,運動をラテン=アメリカに拡大していくことを取り決めた。1965年5月にガーナのウィンネバで開催された第4回会議は,同年2月の米軍による北爆の開始,3月の海兵隊の南ヴェトナム上陸とつづいた米軍のヴェトナム戦争直接介入の影響から,帝国主義に対する対決の姿勢をいっそう強めた。また第3回会議で決定したラテン=アメリカとの連帯を実現するものとして1966年1月にハバナで“アジア=アフリカ−ラテン=アメリカ人民連帯会議”を開催することを決議した。第5回会議は1967年に北京で開かれることになっていたが,中ソ対立の激化により中止のやむなきにいたり,中国はこの会議から脱退することとなった。

 アジア=アフリカ諸国人民連帯会議は,また,各分野別の国際会議を開き,それぞれの分野でのアジア・アフリカ連帯組織をつくりだした。アジア=アフリカ経済会議(第1回会議は1958年),アジア−アフリカ作家会議(第1回会議は1958年),アジア=アフリカ=ジャーナリスト会議(第1回会議は1963年),アジア=アフリカ青年会議(第1回会議は1959年),アジア=アフリカ婦人会議(第1回会議は1961年)などがそれである。しかし母体のアジア=アフリカ諸国人民連帯会議同様,1960年代の中葉から中ソ対立の影響を受けた。作家会議が1966年に分裂集会を開いたのはその一例といえよう。