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●アジア=アフリカ会議 アジア=アフリカかいぎ

AD1955 

Afro-Asian Conference、A・A会議、バンドン会議とも呼ばれる。1955年4月18日から24日にかけて、インドネシアのバンドンで開催された。反植民地主義・民族主義の立場に立つインド・ビルマ・インドネシア・セイロン・パキスタンの5カ国(これ以後“コロンボ=グループ”と呼ばれた)の首相が1954年5月にコロンボで会議を行った際、インドネシアのアリ=サストロアシジョヨ首相から提起されたのを発端とする。同年9月に東南アジア条約機構(SEATO)が結成されるという緊張関係のなかで開催が決定された。参加国は前記コロンボ=グループのほかに、アフガニスタン・カンボジア・中華人民共和国・日本・タイ・フィリピン・ヴェトナム民主共和国・ヴェトナム共和国・ラオス・ネパール・イラン・イラク・ヨルダン・レバノン・サウジアラビア・シリア・トルコ・イエメン・エジプト・エチオピア・ゴールド=コースト(ガーナ)・リベリア・リビア・スーダンの29カ国にのぼり、当時まだ独立していなかったモロッコ・チュニジアもオブザーバーとして出席した。日本以外はすべて政府首脳を代表として送ったので、実質的にはアジア=アフリカ首脳会議となった。会議では、[1]植民地主義反対および民族独立の獲得とその保障、[2]戦争と平和、[3]アジア=アフリカ諸国の友好協力促進の諸問題が討議され、会議終了後、[1]経済協力、[2]文化協力、[3]人権と民族の自決などを内容とする共同コミュニケが発表された。さらに“世界平和と協力の促進に関する宣言”がなされ、いわゆる“バンドン十原則”(“平和十原則”ともいう)が確認された。これは[1]基本的人権の尊重、[2]国家の主権と領土保全の尊重、[3]人種の平等・国家の平等、[4]内政不干渉、[5]国連憲章にそった単独・集団自衛権、[6]大国の利益による集団防衛の取り決めをしない、[7]侵略による他国の領土・独立の侵犯をしない、[8]国際紛争の平和的解決、[9]相互の利益と協力の促進、[10]正義と国際義務の尊重を内容とするもので、1954年6月に発表された周恩来・ネルーの共同声明において確認された“平和五原則”を基礎とし国連憲章の精神を加味したものであった。

 この会議は30カ国近くの新興アジア・アフリカ諸国の代表が集まったものとして、政府レベルでは初めての会議であり、画期をなすものとなった。それは、戦後の米ソ両大国による冷戦構造のなかでインドのネルーが主唱した“非同盟主義”がアジアからアラブ・アフリカへと広がっていったことを示すものであり、その成果であるバンドン十原則は新興アジア・アフリカ諸国の以後の外交政策の基調を形成するものとなった。この会議にオブザーバーとして参加していたモロッコ・チュニジアとアルジェリアがフランスに対し独立闘争を激化したこと、また、この会議には参加国がまだ少なかったアフリカ諸国の独立も、この会議の思想を背景として進展していったことなど、この会議が旧植民地新興諸国に与えた影響はきわめて大きいものであった。しかし、この潮流に対する巻き返しも、前述の東南アジア条約機構をはじめとして“中東条約機構”(1955)、“コンゴ動乱”(1960)、“アフリカ−マダガスカル共同機構”(1965)の形で行われ、アジア=アフリカ会議当時にもあった内部の亀裂はしだいに大きなものとなっていった。ベオグラードで開催された“非同盟国首脳会議”(1961)にみられた植民地主義についてのチトー・ネルーとスカルノとの対立はその表れであった。第2回アジア=アフリカ会議はこうしたなかで1965年アルジェリアのアルジェで開かれることになっていたが、アルジェリアの軍部クーデタ、インド・パキスタンのカシミール紛争、インドネシア=クーデタ、ガーナのクーデタといった事態がひきつづき生じたことにより、事実上無期限延期となってしまった。このことは、アジア=アフリカ連帯の運動の一つの高揚期が過ぎ去ったことを意味するものであった。


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