●浅間山 あさまやま
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浅間山は長野県佐久郡と群馬県吾妻郡にまたがる標高2,542mの三重式活火山。噴火の初見は史料上は『日本書紀』で686年(天武5)3月,平安時代以後の記録にも噴火の記事散見。最大のものは,1783年(天明3)7月の大噴火で,死者は2,000人,約1,800戸流失,降灰は関東一帯におよび凶作をひきおこす。さらに浅間という地名は一般的に火山や火山灰地の意をもつ。天明の浅間焼けといい,オランダ商館長テイチングによってフランスにも紹介されている。浅間山の噴火口は直径450mの円筒形のものでお釜ともよぶ。山体は複輝石安山岩および火山砕屑物よりなり,北側と南側に広大な裾野をつくり,溶岩の噴出でできた鬼押し出しがある。その結果天明の大飢饉の原因となり,災害を続出させている。浅間山の大噴火による上州・信州が降灰のため,草木・農作物が枯死し,江戸川・利根川には人馬の死骸・破損した日常生活品が多く流れついたという。自然災害時には決まって疫病の流行があり,二次災害による病死者が数多く発生している。【具体的経過】1783年(天明3)5月9日よりはじまった一連の噴火は,はじめ2カ月あまりは断続的な活動を繰り返し余震がつづき,7月下旬になると再び激しさを増し,周辺地域に軽石や火山灰も降り,それが関東平野の各地,江戸周辺にまで降灰がつづいている。とくに7月1日・同6日・同7日は大焼けの様相を呈し,8月に入ると噴火はいよいよ激しくなり,昼間でさえ噴煙のなかに,火の燃えるのが遠くから見え,夜になるとあたかも花火が上るように飛び散っている。8月3日の夕方になると,黒煙は空をおおい,稲妻は無数に飛び交っている。山頂は火につつまれ,山腹の各地に山火事がおきている。8月4日はやや小康状態になったが,夕方になると前にまして激しく噴火し,南西20kmの望月宿でも人の顔がみわけができぬほど真暗になり,外へ出るときは米俵をいくつもかぶって石や礫や灰を防御しなければならなかった。数千の雷が一度になったかのごとき轟音と地震がたえ間なく揺らいでいる。そのため,当時軽井沢の宿はパニック状態に陥り,浅間山より東南東10kmでもあったので,8月4日の夕暮れより大きな焼け石が降り,そのため家々が次々と燃上し,石に当たって即死するものもあいついだ。そのため人々はうろたえ,軽井沢の全戸数186戸のうち,壊れた家70戸・焼失した家51戸,残りの65戸もほとんどが修復を要するほどであった。8月3日,4日の2日間,浅間山の東麓から南麓にかけての中山道ぞいの集落は,かなり痛手をうけ,火災があいついでおきている。軽井沢に焼け石が降りつづいたあと4日の夕方,浅間山の北斜面で突然大きなできごとがおきた。俗にいう鬼の押出し流がおきた。
【鎌原の火砕流】8月4日に発生した火砕流は「吾妻火砕流」と今日呼ばれている。翌8月5日の朝,噴火は一段と激しくなり,10時ごろ最高潮に達している。そして再び火砕流が発生し,そして岩流れとなり,鎌原流を直撃し,たちまち村を埋没させている。その結果逃げおくれた477人が生き埋めになった。8月5日の火砕流を「鎌原火砕流」と呼んでいる。鎌原火砕流は,かなり大きな岩塊をはこび,これは山頂の火口より流出したもので,これを鬼の押出し溶岩流と呼んでいる。この火砕流は吾妻川の谷に達し,川を一時的にせき止めたが,翌日またこれがこわれ大洪水を発生したため,吾妻川から利根川すじに押しよせ,川ぞいの村々をのみこんでいる。その結果家財も家の道具もすべてのみこまれてしまった。それが利根川を下り,濁流は小岩の中洲まで押し流し,この洪水によって流失戸数約1,300戸・死者1,000人余を出している。この鬼押出しで埋没した鎌原村は,その後もとの所の上に新しい村をつくっている。その後1979年以来発掘した結果,天明の遺跡を掘りおこすことに成功し,鎌原観音堂は全部で50段あることも判明している。その後かつての村の姿が現実にみえはじめている。
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