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●アケメネス朝 アケメネスちょう

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 ヘルシス(ファールス)地方におこり,メディア帝国およびアッシリア帝国の瓦解の上に成立したイラン人による大帝国。ペルシア帝国ともいわれ,その期間は前550〜前330年の約220年間である。もともとアケメネスとは,北方から南下した現在のファールス州のあたりに定着したイラン人の1支脈の族長の名であり,その子孫たちによってこの歴史上にもまれな大帝国がつくられた。その形成に最も大きな貢献をしたのがキュロス2世(在位前559〜前529)である。彼はメディア帝国を征服し(前553),次に小アジアのリディア(前546),バビロニア(前538)を滅ぼした。エジプトは彼の息子カンビセス2世の時代に征服された(前525)。そして,カンビセス2世の後,各地の内乱をおさえて名実ともに大ペルシア帝国を築いたのがダレイオス1世(在位前521〜前486)であった。彼は帝国内の諸民族の反乱をおさえると,帝国の再組織と改革を断行した。彼は各民族の特殊な習慣や伝統を重んずるとともに,徴税の目的のため全土を22,のちには25のサトラップ(大守)領に分割し統治した。また,「王の道」として知られる公道の整備,駅伝制の確立などはその後長く東洋の諸国家にうけつがれた。また,彼は首都として有名なペルセポリス・スーサを建築し,アケメネス朝の黄金時代を築いたのである。彼の息子のクセルクセス1世(在位前486〜前465)の時代はギリシア諸国家との戦い,すなわち有名なペルシア戦争には失敗したものの,おおむね国内は平穏であったようであるが,彼の時代以降は帝国は下り坂に向かう。前4世紀に入ると,宮廷内闘争が激化し,王家の血統はほとんど絶えてしまった。最後の帝王ダレイオス3世(在位前336〜前330)は王家の遠縁にあたるアルメニア大守である。そして,彼の時代,ついにマケドニアのアレクサンダー大王の侵入をまねき,イッソス・ガウガメラの数次の戦いに敗れ,バビロン・スーサ・ペルセポリスは占領され,東方に逃れたダレイオス3世も殺され,ここにアケメネス帝国は滅亡し,西アジアはいわゆるヘレニズム時代に入ったのである。

 さて,このアケメネス朝の大統一のもとで,帝国各地は陸路・海路の交通路の発達,サトラップ制のもとに行われる徴税などによってイランの経済生活は向上し,もちろん,一部の貴族階級のものとはいえその文化も著しく発展した。支配者としてのイラン人は大神アフラ=マズダを信仰するマズダ教を奉じており,マギと呼ばれるその神官たちが大きな力をもっていたが,概してイラン人は他の地域の宗教に対して寛容であり,各地域の文化を尊重したようである。そのために,この時代の文化,とくに芸術作品,たとえばペルセポリスの建築はイラン的といわれてはいるが,それは各地域の文化の伝統の混合である。文化的後進地帯のファールスからおこった王朝であるので当然のことではあろう。とくに,その文化には古い文化伝統をもつメソポタミア,エジプトの影響が強いようである。これを,はっきりと示すのが,ダレイオス1世が彫らせたベヒストゥーンの碑文である。この碑文は古代ペルシア語エラム語バビロニア語の3言語によって書かれており,また,その古代ペルシア語バビロニアの書体すなわち楔形文字で著されている。エラム語は帝国内で広く公用語として使われていたようであり,エジプト・ペルセポリスから多数の文書が発見されている。ちなみに,このベヒストゥーンの碑文バビロニア・アッシリア語などの古代文字解読の鍵となった。このほか,ペルセポリスの建築などには,ギリシアの影響もみられるようである。つまりアケメネス帝国の文化は,オリエント古代世界文化の混合である。しかしその中には,古代ペルシア語が文字として著されたり,マズダ教の拝火神殿などの征服者イラン人の文化的特徴と考えられるものも認められる。しかし,これらのイラン的要素が実際に強く文化の表面に現れてくるのは後のパルティア時代ササン朝時代であった。