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●アクバル

AD1542 

 1542〜1605(在位1556〜1605)第3代ムガル皇帝。ムガル帝国の支配を確立した。第2代フマユーン帝の死後,1556年,重臣バイラーム=ハーンの後見によって帝位を継承。同年,祖父バーブル(初代ムガル皇帝)戦勝の地パーニーパットでアフガンのスール朝を破り,パンジャーブ・デリー・アグラ及びその周辺地域を獲得し,それまで不安定であったムガル帝国の勢力を回復した。その後,1562年までには東部のアーラハーバード,中央部のグワリオール,西部のラージャスターンを併合,1592年にはカシミール・スィンド・オリッサまで支配領域を拡大し名実ともに北インド全域の覇者となった。彼は地方行政組織の整備につとめ,全国を12(晩年には15)の州(スーバ)に分け,さらにはそのもとに県(サルカール)・郡(パルガナ)・地区・村を置いた。郡以上の段階には有給の役人層が配置され,地区・村ではチョードリ・カーヌンゴなどと呼ばれる土着の有力者層が統治した。アクバルの統治期にはマンサブダーリ制と呼ばれる中央集権的な官僚制度が実施された。すなわち,役人は官位(マンサブ)の保持者(ダール)であり,官位は彼らが保持する兵士の数(10人から1万人まで)によって33等級に区別されていた。役人はこの官位に応じて,原則として現金による俸禄を国家から支給された。官位は世襲制ではなく,任命・罷免・任地の決定などの権限は皇帝に属していた。徴税政策としては土地は国家の直接所有とする原則にもとづき,政府は農民(ライーヤット)から直接に地税を徴収し,徴税請負人など中間介在者を排除する方策をとった。ヒンドゥー教徒である財務大臣トーダル=マルの建言に従い,全国で土地丈量を実施した後全土を4等級に分類,各等級ごとに一定の税率をもとにした徴税額を定めて平均収穫高の約3分の1を徴収した。しかし,こうした官僚制度や徴税制度はアクバルの死後しだいに衰退ないし改変していくこととなった。アクバルは全インドの統一支配のためにはムスリムのみならずヒンドゥーをも含めた多民族の統合が必要であると考え,彼らの宥和をはかった。それは彼の徴税・宗教・文化の諸政策・治績に反映している。たとえば,ムスリム以外の異教徒に課すべき人頭税(ジズヤ)を1564年に廃止した。1568年にはラージプート勢力を平定したが,同時に彼らに官位を与えて重用したり,自らアンベール(ジャイプール近郊)のラージャの王女を妃に迎えたり,ムガル宮廷内にヒンドゥーの女性を多数呼びよせたりした。デリー・アグラ・ファテプシクリ(アクバル時代の首都であったが数年にして廃都となる)など宮廷を中心に,インド古典のペルシア語への翻訳,建築・絵画・文学・思想などにおけるヒンドゥー的要素とイスラーム的要素の融合したインド=イスラーム文化が開花した。彼は一方でサティー(寡婦殉死),幼児婚などヒンドゥーの伝統的慣習に制限を加え,他方では牛の屠殺禁止などヒンドゥーの宗教慣習を尊重した。アクバルはさまざまな宗教の融合をめざし,イスラーム・ヒンドゥー・ゾロアスター・キリスト・仏教の各宗教を折衷した“神聖宗教”(ディーネイラーヒー)を自ら生み出したが,それは必ずしも普及せず,彼の死とともに消滅した。

 アクバルは,かくして[1]地方統治制度の整備,[2]中央集権的官僚制の施行,[3]ラージプートなど非イスラーム諸勢力への宥和的対応,[4]インド=イスラーム文化の形成,という特色をもつムガル期最盛の時代をつくりだした。なお,この時代の史書としてはアクバル在任中の宮廷史家アブール=ファズルの著した歴史書『アクバルの書(アクバル=ナーマ)』及び『アクバル会典(アーイーニ=アクバリー)』がある。また,ポルトガルのイエズス会士アントニウス=モンセラーテの遺した記録「モンゴル使節記」及び「モンゴル人の王エケバルに関する報告」(『モンセラーテ,ムガル帝国誌,バイス・ヌーネス,ヴィジャヤナガル王国誌』岩波大航海時代叢書II−5所載)には,アクバル及びその時代のムガル帝国の事情が生き生きと描かれている。

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