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●悪党 あくとう

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 一般名詞としては,悪事をはたらく集団,あるいは悪者のことであるが,歴史的には,鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて,幕府や荘園領主などに反抗する行動をとった,在地領主などを中心とする集団をいう。その行動は,鎌倉幕府や荘園の支配体制の矛盾を激化させ,弱体化させたことで,大きな歴史的意義をもった。鎌倉幕府は,承久の乱後公式文書に「悪党」の語を用いはじめる。ついで『貞水式目』には,第32条で「盗賊・悪党を所領内に隠し置く事」を禁ずるなど,悪党を謀叛・殺害・海賊・山賊などとならぶ国家的犯罪として位置づけている。

 1258年(正嘉2)の幕府の追加法令は,「国々悪党蜂起せしめ,夜討・強盗・山賊・海賊を企つるの由,其の間こえあり」として,きびしく取り締まっている。13世紀の半ばごろから,悪党が諸国でみられるようになった。その直接の原因は,第1には,幕府政治がしだいに得宗専政を強めていくなかで,それに反抗する者を悪党と認定したこと。第2は,荘園領主が,その支配体制に武力で反抗する者たちを悪党として幕府に告発したことである。

 とはいえ,その背後には農村構造がしだいに変化し,とりわけ経済の先進地帯である畿内やその周辺部を中心に,在地領主が成長し,既存の武士団内部にも惣領制の解体など大きな社会変動があった。幕府の支配体制に反抗するという意味での悪党は全国でみられた。これに対して荘園の支配体制に反抗する悪党は,新興の在地領主層を主とし,発生地域は畿内やその周辺部が中心となった。これをもって悪党の代表とすることも多い。

 悪党といっても,その集団の構成,行動,悪党化した契機も多様である。高野山領紀伊国荒川荘では,正応年間(1288〜93)のころ,新興在地領主の源為時らが,殺害事件を契機に荘園領主に反抗し悪党として追及され,血縁関係を中心に隣荘の在地領主,近隣名手荘の〈国中無双大悪党〉金毘羅次郎義方と連帯した。1315年(正和4)摂津国兵庫島を襲い,取り締りの守護使と交戦した悪党は,瀬戸内海沿岸から淀川流域の港町に拠点をもつ悪得商人,延暦寺僧侶の正式身分をもつ100人あまりで構成されていた。同じころ播磨国矢野荘では,同荘例名が東寺に寄進されたことを契機に代々の公文,一部の地頭である寺田法念が別名に討ち入り,以後寺田氏が悪党の中心となったが,その集団には寺田氏の一族,近隣の在地領主や御家人のほか,延暦寺の悪僧もまざっていた。

 畿内やその周辺部の悪党も,このように種々の要素を含みつつも,新興の在地領主が中心となり,鎌倉幕府に対し,悪党相互に横に連帯しながら,新しい地域的な封建制を求めていった。悪党を取り締るべき守護や地頭も,直接連帯,間接的に支持するなど悪党取り締りは結局効果をあげなかった。その反面,これらの悪党は,よく同じ時期に著しく勢力を強めてきた農民と鋭く対立した。南北朝時代に成立した播磨国の地誌である『峰桐記』が悪党についてとくに一項を設け,〈異類異形〉と表現したように,倫理的な退廃面をつよくもっていることも多い。しかし,『峰相記』が,〈国中ノ上下過半俗等ニ同意スル間〉〈ハタシテ元弘ノ重事出来ル〉というように,その行動によって文字どおり鎌倉幕府の支配体制をくずしていった。後醍醐天皇に協力した討幕軍のなかには,楠木正成・赤松円心など,悪党的勢力出身と推定される者も多い。

 南北朝時代の訴訟でも,慣例的に悪党の語は用いられたが,室町幕府の追加法のなかに悪党の取り締り令はない。かつて悪党として行動した在地領主の多くは国人と呼ばれ,連合組織して党や一揆を結成し,しだいに守護領国制のもとに組織化されていくとともに悪党の語は,一般名詞としての用法にかわっていった。〔参考文献〕佐藤和彦著『南北朝内乱史論』1979,東京大学出版会

山陰加寿夫「“悪党”に関する基礎的考察」日本史研究178,1979