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●県主 あがたぬし

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 上代日本の地方豪族。本来は氏姓時代における地方行政組織の首長の称。律令時代になっても姓(かばね)として用いられ,近世になっても賀茂県主などのような名家の族称として用いられていた。

【県・あがた】大和国家の地方行政上の単位で,有名な大和の高市(たけち)・葛城(木)・十市(とおち)・志貴・山辺・添(そふ・曽布)の「倭六県」のように,朝廷に密接な存在に注目し,県は朝廷の料地であるとか直轄支配地であるという説も古来有力であるが,大和にも莵田(とだ)・春日・猛田などの県があるほか,東は越前から南は薩摩,西は壱岐・対馬まで広く分布する県が,すべて朝廷の直轄であるとか,大王家の料地であるとは考えがたい。実際に,大和や畿内の県が朝廷中枢と密接な関係をもっていたろうことは疑う余地がない。六県のほかにも,河内の茅渟・河内・紺口・志幾,美濃の鴨,山背(城)の鴨(葛野)・吉備の三野・苑・波区会・上道・川島,筑紫の儺・伊都・八女・山門,肥(火)の松浦・八代・熊・阿蘇(閼宗),豊の上膳・直入,対馬の上県・下県,美濃の鴨・片(方),近江の犬上,尾張の年魚市・島田,伊勢の安濃・壱志(師)・度逢(度会)などの諸県は,その県主とともに史上にも顕著である。

【特殊な県主】鴨(賀茂)県主のように各地にみえるものは,鴨神社の信仰とかかわる祭祀集団的な性格をもつものであろうとする説もある。もともと初期古代小国家の君長であった彼らは,みな濃厚な祭祀性を伴っていた。御県神・県神社・県主神社などの存在はそれを如実に物語る。それにしても京都のいわゆる下鴨社(賀茂御祖神社)の社家の系図は,平安時代初期に成立した古様のもので,日本古代豪族の祭祀性や政治社会における性格を,克明に伝えている。当然県の領域や県主の勢力には大小のあることで,丹波・志幾・丹羽・三島(河内)のように大県主の称のあるもの,飯島(伊勢)・御野(美濃)のように県造の称のあるもの,諸(日向)のように県君という称をもつところもある。大県主は,成務記にも「大県小県」のことがあるから,とくに広域を支配し勢力のある県主であることは疑いないが,県造・県君などは氏姓制の確立後,造や君の姓をもった県主の意味とも考えうる。あるいは,県造は県主から国造へ移行する段階の官職呼称であり,県君は県主のなかでも独立性の強いものであったのかもしれない。大きな県主はそのまま新しい制度の国造に変わっていくものも多い。通常東国の県主分布は越前までとされているが,甲斐の山梨県主,陸奥の会津県主などの名も史料にみえ,信濃の小県も県の遺名である可能性がある。会津は四道将軍の説話でもわかるように早くから大和勢力の及んだところで,考古学的にも前期古墳である会津大塚山という前方後円墳もあって,県主級豪族の存在も確認されている。東日本のなかにも,早くから大和朝廷に特殊なつながりをもった小国家君長勢力がいた可能性もある。

【県主の成立と職掌】九州地方の県主をみると,『魏志』東夷伝倭人の項にみえる小国名と一致する名称がいくつもある。3世紀の東アジア史のなかで国(くに)と認識されていたものが,大和国家の日本列島統一過程において,その地方支配機構となったことがわかる。大和を初め畿内やその周辺の県主たちは,九州のそれらよりも先行して,大和国家の政権形成に参加したと認められる。県主たちは朝廷の初期官司制の作造でもあった。主水・主殿・日置などの職掌を分担していた。大和朝廷の官人であるとともに地方の県地域を領知しているのが県主の仕事で,主という首長性を表す職名は造よりも古様である。地域支配のなかで小国君長時代以来の伝統として祭祀性をもつことはすでに述べたが,いわゆる祭政は古代君主は必須の性格であった。5世紀以後,大和国家機構の発展に伴い,新しい地方支配制度の国造の下部機構的色彩を一時帯びることもあるが,やがて消えていく。しかし姓や族称としては律令時代以後も残った。

〔参考文献〕太田亮『全訂日本上代社会組織の研究』1955,邦光書房

上田正昭『日本古代国家成立史の研究』1959,青木書店

井上光貞『日本古代国家の研究』1965,岩波書店

新野直吉『国造と県主』1965,至文堂