●青木周蔵 あおきしゅうぞう
アジア 日本 AD1844 江戸時代
1844〜1914(弘化1〜大正3)明治時代の外交官。長州村医の子(三浦玄明)として生まれる。幕末,長州藩校明倫館好生堂(医学所)館長青木研蔵の養子となる。1868年(明治1)医学修業のためドイツへ留学,1874年(明治7)転じて駐独公使となり,外交官のスタートをきる。第1次山県有朋内閣では,外相として対英条約改正交渉を行ったが,大津事件の引責を名として辞任させられた。日清戦争の直前,駐英公使として領事裁判撤廃の条約改正に成功,のち第2次山県内閣外相として改正条約の実施にあたった。1906年(明治39)には駐米大使として移民問題の解決につとめる。外交官としての青木の半生は条約改正交渉に長く深くかかわり,外交政略としては早くから強硬な討露主義と朝鮮侵略を主張し,日露戦争後は大陸への進出を推進した。青木は留学生・公使として滞独生活25年に及び,日本におけるドイツ通の第一人者として,ドイツの体制・文化の導入をはかった。