●アウラングゼーブ
AD1658
在位1658〜1707 ムガル帝国第6代皇帝。父シャー=ジャハーン(在位1628〜58)の3男。シャー=ジャハーンは統治末期,1657年に病に倒れ,その4人の王子たち,すなわちダーラー=シコー,シャー=シュジャー,アウラングゼーブ,モラード=バフシュのあいだで皇位継承戦争がおきた。長男ダーラーが,一応,次期皇位継承者と決まっていたが,彼は広大なムガル帝国を統治していく政治的才能に欠け,1658年5月アウラングゼーブ‐モラードの連合軍に,アーグラの郊外で敗れ,西インドを転々として逃れたが,翌年つかまり,処刑された。ほかの2王子もアウラングゼーブの軍に倒され,アウラングゼーブが皇位に即いた。彼の統治は,1679年を境に前後に分けられる。前半の統治時代は,シャー=ジャハーン統治時代以来のラージプート系の大貴族が,政権の中核にいた。統治初期は,継承戦争の後始末,また彼自身の病気,カシミールへの転地療養などで,自己の体制づくりに追われていた。また1660年代からは,シヴァージーを中心とするマラータの,ムガルへの抵抗に手を焼いていた。一般には,1679〜80年のラージプート反乱と,その鎮圧をきっかけとして,アウラングゼーブの,統治後期のヒンドゥー抑圧政策が顕著になったといわれている。しかし,アウラングゼーブの政策はイスラーム中心主義のヒンドゥー抑圧という面だけではわりきれない。彼は,マラータの反乱鎮圧,デカンのビージャープル・ゴルコンダ2王国征服のため,デカンに軍を送り,統治後半は自らもデカンにおもむき,デカン政策に追われることとなった。病に倒れ,彼の名にちなんだアウランガバード市郊外に葬られた。これまでのムガル皇帝とは違って,ごく質素な墓が建てられただけである。彼の統治後半は,デカン政策のすきをぬって,北インドでジャート族の反乱がつづき,ムガル帝国内部は弱体化し,彼個人の手腕ではもはやどうにもならないくらいの段階に達していたのである。