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●アウステルリッツの戦い アウステルリッツのたたかい

ヨーロッパ フランス共和国 AD1805 第一帝政

 ナポレオン軍が1805年12月2日,アウステルリッツ西方で,ロシアとオーストリアの連合軍を破った戦争をいい,フランス・オーストリア・ロシアの3皇帝の戦いという意味で三帝会戦といわれる。アウステルリッツはモラヴィアのブルン(ブリュン)の東方に位置している。

【第3回対仏同盟】1802年3月27日に成立したアミアンの和約は,イギリスとナポレオンの妥協であり,この和約によって,第2回対仏同盟は解消した。しかし、フランス=ブルジョワジーの期待である,イギリス商品のヨーロッパ市場からの追放をうけたナポレオンは,イギリス進攻を意図し,このためにアミアンの平和は破れた。イギリスは1805年初めから,第3回対仏同盟を考え,1805年8月に,イギリス・ロシア・オーストリア間にそれが成立した。イギリス上陸作戦を計画したナポレオンに対し,1805年10月21日,ネルソンの指揮するイギリス艦隊は,トラファルガル沖海戦において,フランス・スペイン連合艦隊を破って,その企図を断念させた。ナポレオンはこのため,イエナ=アウエルシュテットの戦いの勝利のあと,1806年にベルリン勅令を発して,大陸封鎖を行い,経済・食糧面からイギリス攻略を実施することに転換するのであるが,一面では,イギリス勢力を大陸から閉めだし,イギリスと結ぶ国を倒して,ヨーロッパに覇権を確立させるために,大陸政策を強行していくことになる。1865年10月21日,ドイツに進出して,ウルム(Ulm)の戦いで勝利を収めたナポレオンはウィーンに入城した。

【ナポレオンの勝利】オーストリア皇帝フランツ1世は,ナポレオンのウィーン占領によって脱出したが,ナポレオン軍はこれを追って北に進んだ。第3回対仏同盟に加盟しているロシアのアレクサンドル1世は軍を率いて,ブルン近郊でフランツ1世の軍と合併し,ナポレオン軍を上回る勢力となった。1805年12月2日,両軍はアウステルリッツ西方で戦闘に入ったが,その日は1年前にナポレオンが皇帝に就任した記念日にあたる。また当日は霧が濃く,視界がきがなかったが,戦闘が開始されるころから晴れていき,フランス軍が勝利を収めたときには,ふだんより太陽が輝いてみえたところから,「アウステルリッツの太陽」ということばは,フランスで幸運をもたらすものの意で用いられるようになったといわれる。午前7時,7万3,000人のナポレオン軍はゴールドハッハ川の西に,約8万のロシア・オーストリア軍はザッチャネル湖以北のプラッツェンの丘に陣して対した。ナポレオンは陽動作戦によって敵を誘い,主力が手うすになった敵の中央に向けて突破したので,ロシア・オーストリア軍はそれぞれ2万1,000人,6,000人の戦死という多大の損害をうけ,アレクサンドル1世はロシアに引きあげ,オーストリア軍は降伏した。

プレスブルクの和約】戦争終了後,1805年12月26日,オーストリアとフランスはプレスブルクの和約を結んだ。プレスブルクは現在,チェコスロヴァキアにあり,ブラティスラヴアといわれるが,当時はハンガリーの主要な政治都市であった。この和約によって,オーストリアは北イタリアの一部,アルル・ブライガウなどの領地をバイエルン・ヴュルテンベルク・バーデンなどの親ナポレオン諸邦に割譲することになり,第3回対仏同盟は崩壊した。アウステルリッツの戦い,プレスブルクの和約によって,ナポレオンの大陸政策は前進し,中央・東ヨーロッパにおいては,オーストリア・ロシアが敗れたことで,ナポレオン支配が強まった。オーストリアは敗北したことで国威を低下させ,1806年に成立する第4回対仏同盟にも加わらず,ライン連邦の16邦が脱退したことで,ハプスブルク家が皇帝位を独占してきた神聖ローマ帝国も1806年に消滅することになるし,1810年には皇女マリー=ルイズがナポレオンの皇妃になるなど,対ナポレオンの姿勢を明確にすることができなくなった。