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●アウグスブルク宗教和議 アウグスブルクしゅうきょうわぎ

ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD1555 ハプスブルク朝

 ドイツにおけるカトリック・プロテスタント両派の争いを解決するためにアウグスブルクで開かれた帝国議会での決議。1555年9月22日に法令として公布された。

【和議にいたる過程】ドイツの宗教改革問題をめぐる争いは,1525年のドイツ農民戦争を境に,カトリック派の神聖ローマ皇帝・諸侯とプロテスタント派の諸侯・帝国都市の対立抗争に転化していた。皇帝カール5世は1526年のシュパイエル帝国議会でいったん宗教改革を黙認する態度を示したが,1529年の第2回シュパイエル帝国議会で一転して宗教改革禁圧の方針を打ち出すと,プロテスタント諸侯・帝国都市は抗議(プロテスト)を行い,1531年にはシュマルカルデン同盟を結んで団結した。皇帝は1546,47年のシュマルカルデン戦争でプロテスタント派を破り,カトリックとプロテスタントの信条を折中した仮信条協定の遵守を強要した。しかしシュマルカルデン戦争で皇帝側についたザクセン選帝侯モーリッツが1552年反旗を翻して,プロテスタント派が優位に立つと,皇帝はドイツの宗教・政治問題を解決する希望を失い,弟のドイツ国王フェルディナントに全権を委任して身を引いた。フェルディナントは1555年2月アウグスブルクに帝国議会を招集し,そこで決定されたのがアウグスブルク宗教和議である。会議にはローマ教皇の使節として2人の枢機卿も加わり,プロテスタント派に大きく譲歩することに反対したが,和議は両者が教皇選挙枢機卿会出席のためにローマヘ出立したあとで取り決められた。

【和議の内容】和議の原則は〈一人の支配者のいるところ,一つの宗教〉ということばで表現された。これは1600年にヨアヒム=シュテファーニによって〈各領域の宗教はその支配者の宗教に従う〉と定式化されることになるが,宗派の決定権は領邦君主にあることを意味する。したがって住民には信仰の自由は認められず,彼らは領邦君主の決定した宗派を信奉しなければならなかったが,自己の信仰を守るために領外に移住する権利だけは彼らにも認められた。領邦君主とは異なって,帝国都市には宗派の決定権は認められていない。フェルディナントや諸侯は,帝国都市の参事会と諸侯と対等な主権者と認めなかったからであり,帝国都市は少数派の宗派の住民の居住を容認しなければならない,とされた。なお,宗派の決定権は領邦君主にあるとはいえ,諸侯は帝国議会の開催に先立って『アウグスブルク信仰告白』を固守することを申し合わせており,したがってプロテスタンティズムのなかで認められたのはルター派だけで,カルヴァン派は除外された。和議の決定にあたってカトリック・プロテスタント両派の意見が対立したのは,聖職者諸侯が以後福音主義に改宗した場合の処置についてである。フェルディナントは結局プロテスタント諸侯に譲歩させることに成功し,聖職者留保条項を成立させたが,それは,以後福音主義に改宗する聖職者諸侯はその地位を去り,それまで保持していた世俗的支配権を放棄しなければならないことを内容とする。聖職者諸侯は世俗諸侯に認められた宗派の決定権から除外されたのであり,そのことはプロテスタント派にとって不利であった。この宗教和議はプロテスタント(ルター派)にカトリックと対等の権利を認めておらず,カトリック側からすればルター派を容認したというべきものであった。しかしそれにもかかわらず長年にわたる両派の抗争を終わらせることができたのであり,宗教改革に伴う宗教的・政治的問題にひとまず終止符を打った法令といえる。だが17世紀に三十年戦争が勃発したことからも知られるように,紛争の再燃する禍根を宿してもいたのである。