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●アヴィニョン幽囚 アヴィニョンゆうしゅう

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 「ローマ教皇のバビロン幽囚」とも呼ばれている。中世末期ローマ教皇が南仏アヴィニョンに居住したこと。中世教皇権の絶頂期を代表するボニファティウス8世(1294〜1303)はフランス国王フィリップ4世(美王 le Bel)(在位1285〜1314)と対立し,1303年9月7日フィリップの側近の一人ギョーム=ド=ノガレ(1260〜1313)によって,南イタリア,アナーニの別荘で襲撃され3日間の監禁ののち,アナーニ市民に救助されたが,10月12日死去している。次の教皇ベネディクトゥス11世の選出は支障なく行われたが,わずか9カ月で死去すると,次の教皇の選出は枢機卿間の対立で約1年かかった。選挙は政争の激化したローマを避け,ペルージアで行われ,1305年6月5日フランス,ボルドー大司教ベルトラン=ド=ゴットが選ばれ,クレメンス5世(在位1305〜14)になった。彼は国王フィリップ4世臨席のもと,リヨンで即位し,さっそくフランス人枢機卿9人を選んで態勢を固めている。当時教皇庁とフランスのあいだには解決すべき問題が山積していた。なかでもアナーニ事件ののちの始末とテンプル騎士修道会の問題は急を要した。アナーニ事件ではノガレの処分とボニファティウスの発した反フランス的教皇の処理とか,ボニファティウスの異端の嫌疑があったが,最後の問題は1311年10月のヴィエンヌ公会議までもちこされたが,残りの問題は教皇側の全面的譲歩で解決された。この問題の交渉,前述のヴィエンヌ公会議の準備に手間どっているとき,イタリアはドイツ皇帝ハインリヒ7世(在位1308〜13)によって侵略された(1310〜13)ため,教皇のイタリア帰還は阻まれフランス国内に滞在を余儀なくされた。だからクレメンスは仮の滞在地としてアヴィニョンを選んだにすぎなかった。ここはスペインとイタリアをつなぐ旧街道とローマ街道の交差点に位置し,ローマ教皇の陪臣であるプロヴァンス伯の領地であったから選ばれた。その後テンプル騎士修道会問題がもつれたこと,かんじんのローマ市で反教皇派の反乱がおこったし,神聖ローマ帝国も教皇に敵意を抱いていたということでフランスの保護の下に入らざるをえなくしてしまった。次のヨハネス22世(在位1316〜34)はこの地に定住し,財政上・行政上の改革を行って教皇庁の中央集権化に努めた。彼はドイツ皇帝の選挙に介入し,ドイツ皇帝の反発を強めたが,この際皇帝側にはパドヴァのマルシリウス(1290? 〜1342)やウィリアム=オッカム(1300?〜49?)などがつき,教皇側と激しい神学論争を繰りひろげている。1代置いて次のクレメンス6世(在位1342〜52)まで皇帝選挙の問題は尾をひくが,クレメンスの支持でドイツ皇帝になったカール4世(在位1346〜78)の『金印勅書』(1352)で決着した。またクレメンスはイギリスの教会から多額の献上金を取りたて財政を改善せんとしたが,英国議会の反発をまねき,ますますフランスヘの依存を強めた。クレメンスは1348年プロヴァンス伯からアヴィニョンを買収して,そこに豪華な宮殿をつくっていった。これ以後アヴィニョンには3代の教皇が生まれるが,イタリア復帰の努力は絶えずなされている。すでにヨハネス22世は強力な遠征軍を北イタリアに送り,ボローニャに教皇庁を移す工作も行われたが結局失敗している。しかし,1353年イタリア特使兼教会領総代官に任ぜられた枢機卿ジル=アルバレス=アルボルノスはドイツ皇帝カール4世の側面的援助を受け,教会領をつぎつぎに回復し,教皇への服従・各領地の自治などを決めた『ファノ憲章』の発布などで教皇庁のローマ帰還への途をひらいた。1367年10月16日ウルバヌス5世(1362〜70)はローマに帰還したがわずか3年間の滞在であり,教皇庁の大部分はアヴィニョンに残るという不徹底なものであった。しかし,ペトラルカ(1304〜74)やシエナのドミニコ会修道女カタリーナ(1347〜80)などの帰還要請の高まりのなか,ちょうど百年戦争も休戦の和議が成立し,傭兵に余裕ができたので,1376年1月17日グレゴリウス11世(在位1371〜78)はローマに入り,ここにアヴィニョンの幽囚は終わった。1年後の教皇の死は教会に混乱をひきおこし,「教会の大分裂(Schisma)」(1378〜1417)が始まる。

〔参考文献〕ギュマン,橋口論介訳『中世末期教会史』1962,ドン・ボスコ

半田元夫・今野国雄『キリスト教史I 宗教改革以前』1977,山川出版社