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●アイン=ジャールートの戦い アイン=ジャールートのたたかい

アジア モンゴル国 AD 

 成吉思汗の孫モンゲ(元の憲宗,在位1251〜59)は,弟のフラーグを西南アジア侵攻に向かわせた。蒙古軍は破竹の勢いでペルシアを席捲し,1258年(憲宗8)にアッバース朝の首都バグダードを占領,この王朝を断絶させた。蒙古軍はさらにディヤール=バクル・アレッポ・ダマスクスを陥し,シリアからガザをうかがうほどであった。他方東からの脅威の報をうけたエジプトのマムルーク朝スルタン,サイフッ=ディーン=クトゥズは,当時シリアに亡命していた将軍バイバルス=アル=ブンドガダーリーの協力をえて,大軍を編成し反撃にあたった。1259年(憲宗9)8月モンゲ=ハンが死去したため,フラーグはカラコルムに帰り,蒙古軍の指揮は,将軍キトブガに委ねられた。そして1260年(中統1)9月3日,両軍はティベリウスの近くのアイン=ジャールートで会戦することになる。12万の兵力をもつマムルーク軍は善戦し,無敵を誇ったが総勢1万ほどの蒙古軍に壊滅的な打撃を与えた。指揮官キトブガを失った蒙古軍は,シリアから撤退し,ユーフラテス川以北に退却した。アイン=ジャールートの戦いは,無敵の蒙古軍に鉄槌を与え,不敗の蒙古軍という神話を打ちくだいた点で,イスラーム世界にとっては意義深いものであった。