●アヴァ朝 アヴァちょう
アジア ミャンマー連邦 AD1364 ペグー朝
1364年から1555年までつづいたビルマのシャン族王朝。タウングー朝の後身であるニャウンヤン朝(1605〜1752)のことを呼ぶ場合もある。【シャン(タイ)族王朝の出現】ビルマ族のパガン朝は,13世紀の後半,4度にわたる元の侵寇をこうむった末に元に隷属することになったが,政治的実権はその段階ですでにミンザイン(木連城)のシャン族首長3兄弟,アディンカヤ一(阿散哥也),ヤーザティンヂャン(阿刺者僧吉藍),ティーハトゥー(僧哥速)の手に移っていた。シャン族3兄弟は,名目だけのパガン王統を1299年に廃絶させ,1300年に行われた元の5度目の侵寇(大徳年間の征緬)を退けたのち,1312年にピンヤ,1315年にサガインの王城を築き,2系列のシャン族王朝を樹立した。両王朝ともその支配地域はイラワジ川の流域平野に限られ,北部ではマオ‐シャン族,モーニン‐シャン族などが活動し,南部ではモン族のハンターワディ朝が安定した勢力を築いていた。
【アヴァの築城】ピンヤ・サガインの両王朝は相互に暗殺を繰り返したあげく,マオ‐シャン族の干渉を招いて崩壊した。その後,サガイン朝の血をひくタドーミンビャーが,分散したシャン族の勢力を結集して,1364年ミッゲー川とイラワジ川との合流点に王城を構築した。これが,19世紀後半までビルマの別名として外国人に知られたアヴァ,すなわち,アワの始まりである。
【モン族との争い】アヴァ朝の歴代国王は,14世紀から15世紀にかけて南部ビルマのモン族と戦闘を繰り返した。モン族は,パガンの滅亡後,ワレルのもとに結集して政治的統合を達成,14世紀後半にはペグーに都城を築いて,南下してくるアヴァの軍勢を迎撃した。アヴァとペグーとの抗争は,15世紀に入るとモン王ラーザダリ,アヴァ王ミンレーチョーソワ両者間でますます熾烈となり,沈静化したのは1417年になってからであった。1世紀にわたるこの戦争は,南方へ進出しようとするシャン,ビルマ族の民族移動の波と,これを喰い止めようとしたモン族との衝突にほかならない。
【タイ系諸族との相剋】アヴァ朝への軍事的圧力は,北の方からもあった。ビルマの北方で蠢動していたのはマオ‐シャン・モーニン‐シャンといった同じタイ系の部族であったが,アヴァに対する彼らの挑戦は,部族相互間の内紛というよりは,雲南−ビルマ−ベンガルへと通じる陸上交易ルートの開発に関心をもつ明の策動によるものであった。明とビルマとのあいだには,干崖・木邦・麓川・車里といった土司がいくつも介在しており,互いに抗争していた。なかでも,木邦と麓川の勢力が強大で,しばしばビルマを侵略した。ビルマのアヴァ朝は,明の正統帝による麓川の思任発・思機発父子への征討に呼応して,1443年二人を生贄にして引き渡した。アヴァ朝は明への協力の見返りとして,1471年孟養の地を領有しようとしたが,孟養は思機発の孫,思洪発の所轄の地であるとして,明はこれを認めなかった。北ビルマの治安が安定したのは,明が南海交易の実権を失った1469年以降になってからである。
【アヴァの行政機構】1367年に出されたミンチーソワソーケー王の勅命によると,14世紀当時のアヴァの中央行政は,ウンヂー(元老),ウンダウ(元老補佐)といった政務担当官僚と,アトゥインウン(枢密院長官),タンジン(伝奏官)などの宮内官僚の2府に分けられ,王都の治安はミョウン(奉行)が,王宮の警備はウィンフムー(近衛司令)が,受けもっていた。軍隊の構成は,ボーフムー(司令官),タッフムー(部隊長),シッケー(参謀),ナカン(副官)などが幹部を成したが,この階級序列はニャウンヤン時代になっても変化がなかった。住民は,扶持地を与えられて公務に従事するアフムダン(従臣層)と,公務には従事しないシンイエーダー(庶民層)とに分かれていた。
【アヴァ朝の滅亡】北のシャン,南のモンに挟まれ弱体化したアヴアは,1555年ビルマ族に倒された。