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●アイルランド

ヨーロッパ 英国 AD 

 大西洋の北東部に位置し,ブリテン島の西どなりにある大島。アイルランド共和国とイギリスの支配下にある北アイルランドからなる。島名は「緑の島」の意。地勢はブリテン島に似るが,ブリテン島が東方に開いているのに反して,本島は西方の海洋に向かって人々を乗り出させるがごとくにできている。海岸に沿って低い山脈が走り,内陸部は湖沼の点在する平野である。ヨーロッパ有数の牧野となっており,牧畜は古くからアイルランド人の生業であった。またこの国の風物は,牧歌的といえる。牧野のみならず森林にも恵まれた島である。典型的海洋性気候で,湿度が高く雨の日が多いが,冬期は温暖で,雪・霜が少ない。全島の面積が8万4,000平方km,ブリテン島の3分の1である。全人口490万人(1979),ケルト系住民が主勢力をなしている。なお北アイルランドの面積は1万4,000平方km,人口は154万人(1976)である。宗教について,新旧両派の別をパーセントで示すと,共和国ではカトリックが94%,プロテスタントは各派あわせて4%,北部では前者が31%,後者が55%を占めている。

【歴史・古代】最古の住民がいかなる人種であったかは明らかでない。旧石器時代の確かな遺物はまだ発見されていないが,新石器時代のそれは各地から出土している。イギリスのストーンヘンジなどと同系列と認められる巨石記念物が今日のこされている。それは恐らく大陸からの渡来者がもたらしたものと考えられる。前15世紀ごろから青銅器の,前4世紀ごろから鉄器の使用が開始された。金属器によって森林が伐り開かれ,家畜が飼養され,穀物栽培が行われるようになったとされている。ただし,銅は南部山地から産出したが.錫はブリテン島南部のコーンワルやフランスのブルターニュから輸入しなければならなかった。なお東海岸のウィクロー山地から金が出たので,大陸の諸民族を本島にひきつけた。前7世紀ごろから前2世紀にかけて,大陸とブリテン島からケルト人が侵入し,相互に,また原住民とも混血し,ゲール人またはゴイデル人をつくった。今日のアイルランド人の遠祖がここに形成されたといえる(ブリテンとアイルランドはケルト最後の征服地であった)。ケルト人はすぐれた鉄製武器を保持し,これをもって先住民の征服に成功した。殺戮は行われたが,先住民を滅ぼすことをせず,もっぱら必要な土地の確保をめざしたようである。また征服者のあいだには氏族制が維持されていたが,被征服民もまた不自由民としてその社会に組みこまれていった。氏族はゲール社会における政治的・経済的中核体であり,その存続が近代にいたるまで認められる(氏族内部における階級分化,貧富懸隔の増大など,多くの変質をとげてのことではあるが)。氏族が集まって種族がつくられたが,やがてより大きな政治的集団として小邦(トゥア)の成立が見られ,これを統治するものが小王(リー)であった。のちになるとさらにその上位にあるものとしてリー=モルが登場し,いくつかの小邦を集めたものの長とあがめられるが,そこから全島が五大地域に区分される情勢にいたった。そしてついに,五大首長のうちからアード=リー(上王)と呼ばれる統一君主のようなものが選ばれる。前4世紀に出た「タラの王」がそれであった(神聖な地とされた東海岸ミースのタラ丘に居城を構えている)。彼は宗教的・象徴的君主であるに過きず,実状は政治的不統一から脱せられなかったといえるが,しだいにゲール人のあいだで同一民族の意識が成長し文化的統一もみられるようになってきた。詩人・法律家・歴史家などの演じた役割がこれを示す。ローマのブリテン征服によってもその直接的影響を受けず,だがゲールの諸王は軍事技術を学び,わけても着目すべきはキリスト教の伝来であった。5世紀聖パトリックの布教によってそれが確立し,修道院風のものがとくに発達した。

【中世】民族大移動の圏外に位置していたので,中世初期には香り高い文化を誇り得たといえる。聖パトリックがラテン語を教会用語と定めて以来,修道院と教会が古典を保存し,それを研究する中心となった。民族大移動に追われた学者・聖職者の移住も学芸の伸長に役立った。また本島の聖職者によってブリテン島と大陸へ活発な伝道が行われている。聖コルンバ(コラムシル)と聖コルンバーヌスがその中心人物であり,前者はスコットランドからウェールズ方面にかけて活発な布教に従事し,後者はブルグンド地方(フランク王国内)で伝道に努めた。暗黒時代におけるアイルランド人の活動は,キリスト教の弘通のみならず,学問の発達の面でも貢献するところが大きかった。ただしブリテン島における彼らの伝道はカンタベリーを本拠とする聖アウグスティヌスと対立し,やがて敗退を余儀なくされる(7世紀後半)。ところで8世紀末以降,大陸およびブリテン島はノルマン人侵入の嵐におそわれるが,本島もそれからのがれられなかった。彼らはノルマン人とデンマーク人からなっていたが,アイルランド人はこれをデーン人と呼んだ。200年近くゲール人との戦いがつづき,氏族制社会には変化がおこった。それまで都市をもたなかった本島にデーン人の海港都市が建設され,また混血の結果ガルゴイデル人が形成された。デーン人の及ぼした影響は大きかったといえよう。首都ダブリンの建設(9世紀)もデーン人によるものであり,貨幣の使用(8世紀後半)も彼らから教えられたのである。再び宗教関係にもどるならば,10世紀半ば以降,イギリスを介してローマ教会の勢力が本島に伸張しつつあり,12世紀には四大司教座の確立が認められる。ところで11世紀後半にはイギリスでノルマン王朝が成立,集権的封建国家をつくりあげて勢いが盛んであったが,その力は当然本島にものびてきた。その最初がヘンリー2世で,1171年大軍を率いて渡島,王の宗主権をうち立てた。1210年にはジョン王が,1394年と1399年にはリチャード2世が同じことを行っている。だがイギリス王権への全面的帰服を実現するのは困難であった。土着の族長・小王らの執拗な抵抗がつづいたばかりでなく,本島に領地を得たノルマン貴族もゲール化して王冠からの独立を策したからである。15世紀末の状況はペイル(イギリス人居住の特別地帯)を除く全島がすべてゲールの世界であったとされている。中世を通じ全欧的傾向に沿い本島でも封建化が進行したが,氏族制のなごりの強いそれであった。また1297年には本国にならってダブリンに議会が召集されている。

【近代】テューダー朝の成立とともに始まるイギリス絶対王政は本島に大きな関心を示した。ヘンリー8世は巨費を投じて最大領主キルディア伯を討滅,国教会制をもち込むとともに,1541年にはアイルランド国王を名乗った。メアリーのカトリック復活はアイルランドの歓迎するところであったが,この女王も反乱部族の処置に関し〈清掃と植民〉という強硬策をとっている。ついでエリザベスの治世には3度の反乱(1569〜73・1579〜83・1595〜1603)がおこって女王を悩ましたが(スペインなど反英勢力との連携があった),膨大な軍事費が功を奏してその晩年に征服を達成し得た(スペインの反乱支援があったがむだに終わった)。女王はまた国教会制の導入に力を尽くしたが抵抗が大きく,とりわけイエズス会士の活動が盛んとなって,その治世にかえってカトリック信仰が根をおろしたといえる。ステュアート朝の下ではアルスター植民が進展する(ロンドンデリーはこのとき成立)。1649年1月国王を処刑したクロムウェルは本島が反革命勢力によって利用される恐れを除くために,同年8月末,精鋭を率いて上陸,カトリックを制圧して広大な土地を没収,新教徒兵士によるヨーマン(独立自営農民)層の創設を図った。だが結果としては,彼らの土地が投機者たちに買いあさられて大土地所有制の確立となる(多数が不在地主)。以後,本島はイギリスにとっての安い食料と原料の供給源にされてしまう。王政復古後,共和政が実施した土地没収は再確認され,小地主,借地経営者の階層は漸次消滅にむかい,小農による零細経営が拍車をかけられる状況にあった。名誉革命がおこると,ジェームズ派の基地となったためウィリアム3世は軍を率いて上陸,前王を破って(1690年7月ボイン川の戦い)本島を掌握,ルイ14世の助けを得たアイルランド人の抵抗はなおも続いたが,それが治まってからは1世紀以上の平和が到来(地方的・散発的な一揆の発生はとだえていない),だがその間に貧困化が著しく進行し,他方,異教徒刑罰法によりカトリックはきわめて悲惨な境遇に追いこまれた。18世紀のアイルランドは泥炭と泥小屋と馬鈴薯によって象徴される貧しい国とされている。したがってアメリカに移住して活路をみいだそうとするものが多く出た。農民と対照をなすものがイギリス系のプロテスタント地主であって,全島の土地8割以上を独占,高額の地代と穀物輸出によって巨利を独占,ダブリンの議会をも制してわが世の春を謳歌した。支配者プロテスタント(イギリス国教徒),被支配者カトリックという社会構造が定着したといってよい。アメリカ独立革命の勃発は打ちのめされた本島人を鼓舞したが,18世紀の後半プロテスタントのあいだから,自由貿易を要求する声が大きくなって,彼らは国民党を結成,独立戦争の苦境にあった本国政府は1782年にダブリン議会の自治を承認,「アイルランド=ホーム=ルール」の原型がつくられた。フランス革命の影響も深刻である。初め革命のスローガンに共鳴したカトリックはフランスの反教会的動きをみて反革命の態度に転じ,鎮圧のための遠征軍に参加するほどであったが,北部の非国教徒は革命精神に燃えて政治団体を創立し,全人民のための平等な選挙権獲得を叫び過激な運動を展開した。政府はこれに弾圧を加えたが,1800年に合同法(Act of Union)を発して本島の合併を強行,「グレート=ブリテンおよびアイルランド連合王国」の国号を採ると同時にダブリンの自治議会を廃止,イギリス議会にその議員を加えることとした。その後も秘密結社の活動はやまず,農民の窮迫には変わりがなく,本島に対する保護関税の撤廃は産業家のなかから多数の倒産者を出した。このような状況下にカトリック解放を叫ぶ声が高くなり,協会が創立されて,盛んな運動が展開されたが1829年「解放法」が出されて長年にわたる彼らへの差別待遇に終止符が打たれた。以後は自治獲得(独立に連なる)と土地問題が闘争の主軸をなした。19世紀はナショナリズムの時代であるが,その影響を受けて「青年アイルランド党」が組織され,ダニエル=オコンネルらの議会主義と平行して暴力行使をいとわぬ運動を展開していった。土地問題のほうは1845〜48年における大飢饉の結果,従来以上に深刻化し1850年から3F運動(小作権の安定・妥当な地代・小作権売買の自由をモットーとする)が流行し,世紀後半にはボイコットによる土地戦争がひろがった。グラッドストンは自治要求に好意的態度をとり,1886年と1893年の議会に自治法案を提出したが不首尾に終わった。土地戦争は第1回(1879〜83)・第2回(1886〜90)・第3回(1897〜1903)とつづいたが,本国政府が硬軟の政策を併用して,土地を渇望する小作人がそれを購入できる道を開いたため(政府から補助金または資金を得,長期の年賦償却による自作農創設法が1903年に成立),農民の不満はいちおう解消し,1921年までに総面積の3分の2が自作農の有に帰した(同時に土地の細分化がいっそう促進された)。1890年には農業協同組合連動がおこり農村に活況が与えられた。保守党がとった〈親切によって自治を殺す〉の政策が成功し,今世紀初頭にはアイルランド問題の退潮が感ぜられた。

【現代】しかしもとより問題が解決されたわけではなかった。アスキスを首班とする自由党内閣は,1912年の議会に自治法案を提出.大英帝国内における自治領の地位を本島に認めようとしたが貴族院はこれに反対,またプロテスタントが集中するアルスター地方では〈自治はカトリック支配である〉として武力を伴う抵抗の姿勢を示した。1914年の議会では〈アルスターを6年間自治の適用から除外する〉という妥協案がつくられたが,事態は依然として不穏,折しも第一次世界大戦がおこって,万事は戦後に延期された。これより以前,南部では秘密結社シン=フェーン党が結成され,国民義勇軍の編成を進めていたが,戦争の開始を契機に議会主義者と決別して武装蜂起を企画,1913〜14年にゼネストを決行したダブリン労働者とも提携して,1916年4月,ついに立ちあがりアイルランド共和国の樹立が宣言された。この「復活祭蜂起」は失敗に終わったが,シン=フェーン党の声望が高まり,1918年の総選挙では圧倒的勝利を獲得,1919年1月以降本国政府と武力をもって対決する状況がつづいた。だが1921年に入ると双方に疲労の色が濃くなり,11月妥協案が成立,アルスター分離を条件に,自治領の地位が認められることとなり1922年12月にアイルランド自由国が誕生した。独立したといっても外交・軍事・貿易・金融などの実権がイギリスに残されていたから,完全独立を主張する人たちの闘争がつづいた。1932年にアイルランド共和党が政権を獲得してデ=ヴァレラ内閣が成立すると,本国に対抗する姿勢を強化,1936年総督の地位を廃止,1937年新憲法を制定し国名をエール(アイレ)と改めた。第二次世界大戦がおこると中立を宣言,軍事基地の不貸与をも声明しこの方針を堅持した。しかし大戦中イギリスヘの補給基地(とくに穀物・畜産品)となり,その労働力が軍事産業に寄与したことは否定できない。1948年の総選挙により統一アイルランド党ジョン=コステロが連立内閣を組織,翌年4月,国名をアイルランド共和国と改めた。またイギリス国王を通じて行われていた外交の自主権を回復,諸外国と使節を交換,イギリス連邦からの完全な離脱を果たした。だが公平にみて,大戦後の政局は必ずしも安定を示していない。

 経済については,戦争中からイギリスおよびアメリカへの依存度が強くなったといえる。1973年1月からECに加盟。農業面では依然として小農の国であり,生計のたてがたい貧農が多く,海外移民も避けがたい形勢である。

 ところで今日重大化しているのは,北アイルランド問題にほかならない。不幸な事態のよってくるところは,カトリックとプロテスタントという宗教的対立にあるが,それが政治的要求の違いと結びついて深刻・苛烈な抗争となった。すなわち前者が北アイルランドのイギリスからの分離・全島の完全独立を主張するのに対して,後者は現状維持,もしくは北のみの独立を求めている。発端は1968年における公民権運動であったが,しだいに過激化して両派ともに軍事組織を編成(旧教側がIRA,新教側がUDA),イギリス軍・北アイルランド警察も介入してテロ行動・焼き打ち・出血を伴う弾圧・要人の暗殺・爆破事件がつづき,災いはロンドンにも及んでいる。1981年にはホビー=サンズ以下10人の若者がベルファストの刑務所でハンストを実行して,憤死するという痛ましい事件がおこった。今日,南の共和国側では,この際,北のプロテスタントが〈自国内で暮らしやすい条件をつくろう〉との主張が出ているが,良識ある声といわねばならない。農牧的な南と工業的な北とが一体化することによってのみ,全島の躍進がもたらされるだろう。

【文化】政治運動と連係して,ケルト的伝統を代表するアイルランド文化を維持し,これを宣揚しようとする動きが高まってきた。はるかな昔,ゲール人の社会では政治的不統一にもかかわらず,文化の面で民族の一体たることが強調されたがその復活でもある。18世紀,全島の隷属状態が最悪に達したとき,スウィフトゴールドスミス・バーク(エドマンド)など,当代一流文士の誕生がみられ,いずれもがイギリスで活動して,アイルランドのために万丈の気炎をあげた。だが最重要であるのは1880年代の終わりごろからおこったアイルランド文芸復興運動である。それは自治問題が退潮を示しつつあったときに,ダブリンの知識階級を中心に,あらゆる対立を越えてアイルランド人が同一民族たることを訴える運動であった。具体的にはアイルランド語とアイルランド古典文学の復興・アイルランド史の再認識が叫ばれている。そしてイェーツ・グレゴリ夫人・シング・バーナード=ショーらの登場によって,アイルランド文学が全世界に知れわたることとなった。わけてもアイルランド演劇の名声が確立されたといえる。

〔参考文献〕『アイルランド』(大野真弓編『イギリス史』1965,山川出版社の第8章)『イギリス史におけるアイルランド』

青山音信・今井宏編『概説イギリス史』(1983,有斐閣選書の第12章)

T.C.ベケット(藤森・高橋訳)『アイルランド史』1972,八潮出版社

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