●アイユーブ朝 アイユーブちょう
AD1169
1169〜1250 エジプトのファーティマ朝にかわって,エジプト・シリア・メソポタミア・アラビア半島の一部をも領有した王朝。アイユーブ朝の始祖サラーフッ=ディーンは,1171年ファーティマ朝カリフ,アディードを廃して,名目上はアッバース朝に臣従しながら自らはスルタンとなる。この時点で彼は,シーア派政権を滅し,スンナ派信仰を回復したことになる。当初シリアに居をかまえるかつての主君ヌールッ=ディーンを気づかって,内政の充実に専念するが,1174年彼が他界するとすぐにシリアに兵を進め,主家をも併合して十字軍周辺部を平定し,統一戦線をつくりあげることに成功する。宗教心の篤いサラーフッ=ディーンは,これ以降精力的に十字軍と戦い,大規模で効果的な反撃を行った。1187年には,彼は有名なヒッティーンの戦いに大勝したのち連戦連勝し,ついにはイェルサレムをも奪回している。この反攻に驚いたヨーロッパ勢は,史上最大規模の第3次十字軍を送ってサラーフッ=ディーンと戦いを交えることになる。彼らは多大の損害を払いながらも,包囲後1年半かかってアッカの港を占領し,それを足場に和平条約を結ぶことができた。兵力の消耗をきらってサラーフッ=ディーンは,1191年パレスチナの海岸地域を十字軍にゆずり,和議を結んだ。結果として十字軍は著しく領土を縮小している。両者のあいだに平和が訪れてほどなく,この名君は1193年にダマスクスで没している。享年55歳であった。アイユーブ朝は,領土を一族間で分割する制度を採用していたため,第2世代から分裂をはじめ,離合集散を重ねることになった。サラーフッ=ディーンの長子はダマスクスを,次子はカイロを統治したが,1199年長子はエジブトを併合し.その子孫は南シリア・メソポタミアまで支配した。しかしのちに重要な部分は,王朝創始者の弟アーディルの版図に入り,以後この一族が主流となる。エジプトと南シリアを支配したカーミル(在位1218〜1238)は,一時期デルタ地帯,イェルサレムを第5次十字軍に占領されたが,アッ=サーリフ(在位1240〜1249)はこれを奪回している。彼は治世の終わりの年に,デルタに侵攻した第6次十字軍の王を捕虜にしている。しかしこの対外戦の渦中で彼がアジアから求めた数千の奴隷兵,マムルーク軍団が台頭し,横暴の限りを尽くすことになる。彼の跡を継いだトゥールーン=シャーはこの軍団に殺され,エジプトのアイユーブ朝は滅んだ。北シリアは1260年そンゴルに蹂躪され,その地のアイユーブ家はハマに拠点を置く小王朝として,14世紀まで細々と命脈を保っている。
この王朝の政治組織は,先のファーティマ朝のそれにならい,簡素化したものであった。法務庁・軍務庁・宮内庁が主たる官庁であり,官吏や軍人の多くには給与として土地が与えられた。領主である騎士を統轄する軍務庁が地方行政でも大きな役割を果たし,中央諸官庁の機構は小規模なもので足りた。この王朝の封建制度は,セルジューク朝の制度に倣ったもので,16世紀初頭までつづく封建機構の先駆をなしたとみられる。名君サラーフッ=ディーンは,民生にも心を傾け,ナイル川の堰堤,用水路の新設・補修に万全を期し農業の振興をはかった。当時エジプトは織物業・金属細工・木工が盛んで,造船所が賑わい,国際貿易の中心地であった。この王朝では治水を重んずる傾向が受け継がれるが,その後相次ぐ十字軍の侵攻により経済状態が悪化し,アーディルの治政下で1202年から3年間つづいた飢饉のため,多数の死者が出たと伝えられている。サラーフッ=ディーンは.スンナ派神学を中心とする学術の振興にもつとめ,ナーシリーヤ学林をはじめ多くの学林をおこしている。正統4法学派の法学者や神学者には,十分な給与とワクフ(寄進財)が与えられた。この伝統はこの王朝ばかりでなく,マムルーク朝にも継承されたため,エジプトはイスラーム学の中心的地位を確立することができたのである。