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●アイヌ民族 アイヌみんぞく

アジア 日本 AD 

 東アジアの民族。以前はアイヌ語を話し,狩猟採集経済に立脚し,寒地に適応した生活をしていた。現在では和人(わじん)との混血,文化的同化がすすみ,生活様式も和人とまったく変わらない。アイヌとは,彼らの言語で「人間」「男」を意味している。

【居住地域】近世には北海道全域・東北地方北部・樺太(サハリン)・千島列島に居住,それぞれ北海道アイヌ(東北アイヌ)・樺太アイヌ・千島アイヌと呼ばれた。その後,他民族により,しだいに居住地域をせばめられ,現在では千島アイヌはほぼ全滅,樺太アイヌも第二次世界大戦後は,ほとんど北海道内へ移住した。現在の人口は,配偶者・養子となった和人も含めて,1979年(昭和54)北海道の調査で約2万4,000人(道内のみ)と報告されている。

形質人類学的特徴】近世以降,和人との混血がいちじるしく,正確に特徴を述べることはむずかしい。明治〜昭和初期の資料によれば,体型は脚が長く,それに比べ胴が短い。頭囲は大きく,頭長が大で頭幅が小さい長頭型である。きわめて多毛であり,ひげ・まゆ・上下肢のほか,胸・背などに顕著であるといわれている。臀部に蒙古斑(もうこはん)の認められる例は少なく,明らかな二重まぶた。指紋は蹄状紋が,血液型ではABO式でB型が多い。また味盲(みもう,ある種の味を感じないこと)の人はきわめて少ないと報告されている。

【起源】アイヌ民族がどこから来たかという起源については,古くはヨーロッパ人種説・モンゴル人種説・南方人種説・古代アジア人種説など,これまでに諸説があったが,検討された資料も少なく,また方法論的に問題があるものもあり,どれも定説とはなっていない。北方から南下してきたとする説,南方より北上したとする説とに大別できる。

 アイヌ民族の起源については,日本人起源論のなかで,つねに注目されてきた。大森貝塚の発掘(1877・明治10)以来,日本各地で遺跡が発掘され,資料の蓄積をみるに及んで,そういった文化の荷負者としてアイヌ民族が考えられた。すなわち,シーボルトの日本石器時代人アイヌ説,モースの反論(プレアイヌ説)の後,坪井正五郎小金井良精らによるコロポックル‐アイヌ論争へと展開していく。坪井がコロポックルと竪穴遺跡の関係を述べた渡瀬荘三郎の論文を踏まえ,日本石器時代人=コロポックル説を主張したのに対し,小金井は北海道調査の知見をもとにアイヌ説を提示し反論した。その後,鳥居龍蔵も千島の調査などからアイヌ説に立ち,「縄文式士器の使用者がアイヌであり,日本人の祖先は大陸より日本列島を分断して渡来し,弥生式土器を生み出した」と結論した。このような説は,考古資料の分析から説定された「文化の異差(縄文文化と弥生文化)は人種的な異差だ」とする考え方にもとづいたものであったが,こうした考え方は大正〜昭和において,「文化としてとらえられる異差は,時間的な差によるものである」とする考え方がおこってくるに及んで衰え,その後は,北海道での考古学・民族学の調査がすすんだことと相まって,北海道史の流れのなかで,まずアイヌ文化を位置づけ,その文化形成を考えていこうとする動きが主流になっていった。とくに最近では,言語学や形質人類学・文化人類学・考古学・文献史学など多方面からの学際的アプローチにより,アイヌ民族の起源と文化形成の問題を考えていこうとする動きがみられる。

【文化形成】北海道では,考古学の成果により,以下のように先史文化区分がなされている。先土器文化(時代)→縄文文化(時代)→続縄文(ぞくじょうもん)文化(時代)→擦文(さつもん)文化(時代)。続縄文文化は本州以西でいう弥生文化(時代)と対比されるが,稲作農耕は行わず,狩猟採集が中心であった文化。擦文文化は本州(東北地方)の文化の影響を受け,ほぼ全道的にひろがった文化である。この擦文文化とほぼ平行した時期に,樺太南部−道内オホーツク海沿岸に大陸起源と考えられる文化が南下して定着する(オホーツク文化)。このオホーツク文化は,やがて擦文文化のなかへと吸収されていくといわれ,擦文文化も研究者により諸説あるが,12世紀〜16・17世紀あたりで終末をむかえる。いっぽう,文献資料にみられるアイヌ民族は,14世紀中ごろと考えられる『諏訪大明神絵詞』に北海道南部の蝦夷として登場するのが,確実な記述としては最古のもので,以降近世の文書・絵巻物などに散見するが,これは現在のアイヌ民族につながると考えてよいものである。したがって,考古学と文献資料とで得られた情報を,いかに結びつけるかが鍵となるが,この間,オホーツク文化の南下をのぞいては,大規模な人間集団の侵入交替があった痕跡は今のところない。したがって,現在ではオホーツク文化の影響を受けながら,擦文文化を母体としてアイヌ文化が成立したとする見方が大勢を占めている。さらに人種論・文化論を考えあわせて,縄文文化以前をプレアイヌ,続縄文〜擦文文化をプロトアイヌ,その後和人が侵入し,その影響を受けるまでがアイヌであり,それ以降(江戸時代以降)をアイノイドと呼ぶ区分もなされている。こうした問題の解決には,現在,擦文文化やオホーツク文化などそれぞれの文化についての生業や社会構造など,さまざまな点からの比較検討を行おうとする試みや,古代〜中世の文献にみえる「粛慎」(みしはせ)や「蝦夷」(えみし)についてもその実体を明らかにしようとする動きがみられる。

〔参考文献〕植原和郎ほか『シンポジウム・アイヌ』1972,北大図書刊行会

宇田川洋『アイヌ考古学』1980,教育社(歴史新書)

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