●会津藩 あいづはん
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陸奥国(福島県)会津郡若松に置かれた藩。松平氏など家門14世紀中ごろ葦名直盛が葦名氏として会津に下向し,小高木(のちの黒川)に舘をつくって支配,1589年(天正17)伊達政宗が葦名を滅亡させた。その後会津・白河・石川・岩瀬・安積・信夫・田村の仙道7郡を支配した。政宗はここを中心にして関東進出を考えた。秀吉の忌諱にふれ,わずか1年で没収され,蒲生氏郷に与えられた。氏郷は検地し,91万石となる。家康,輝元につぐ大大名となる。氏郷は1595年(文禄4)没しその子秀行の時代となって御家騒動がおこり,蒲生は宇都宮18万石に移封,上杉景勝が1598年(慶長3)ここを支配した。120万石領有した。のち家康と対立し関ケ原後は米沢藩30万石の領主となり,会津は秀行が関ケ原の功によって60万石を与えられ再封,若松城内外の整備をしている。しかし再び家中の統制もできず,秀行の子忠郷が嗣子なく没したため所領は没収,蒲生の会津支配は終焉を迎えた。1627年(寛永4)加藤嘉明が伊予松山から40万石の大名として入封,その子明成のとき若松城改築,城下づくりをしたが,再び御家騒動をおこし飢饉もあり,明成は40万石を返上した。そして1643年,保科正之(家門・城持)23万石を与えられて入部,会津藩政を確立した。以来9代の松平がつづいた。歴代の藩主の居城は会津若松城であった。正之は家光の弟で家光の補佐役をつとめたこともあり,会津藩の比重を高めた。本領23万石と南山と称するところ5万5000石預地として支配していた。1724年(享保9)越後魚沼郡7万石を加え13万石の預地となった。それだけに比較的藩政は安定していた。預地は直領に代わったりしたので石数は変動した。
藩政の整備は進み,郷村支配は確立し,会津藩の特産物奨励はすすめられ漆・蝋の生産は発展し,社倉制や常平倉を展開している。また買米制によって米価安定策をはかり,早くから文治政策を保科正之はとり,農村における肝煎,郷頭の恣意的横暴をおさえることに成功している。
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