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●アイグン(愛琿)条約 アイグンじょうやく

アジア 中華人民共和国 AD1858 清

 1858年(咸豊8),黒龍江南岸の愛琿で調印された清国−ロシア間の条約。アルグン川黒龍江(アムール川)を両国国境とすることが主要内容。

黒龍江問題】1689年(康煕27)のネルチンスク条約では外興安嶺(スタノボイ)山脈が国境とされ,最東部に関してはウディ川の南,大興安(ヒンガン)の北の間の地区はしばらく中立として,国境線は後日議定すると定められていた。この中立地帯は,本来ウディ川近くの狭い地域であると考えられており,黒龍江の全流域は清国領と了解されていた。ところがロシアは黒龍江の航行権を得ることを早くから希望し,18世紀より清国に許可を求めたり探険隊を派遣するなどした。皇帝ニコライ1世はこの問題に強い関心をいだき,1840年代から積極的進出をはかった。ロシア側はその根拠として,ウディ川以南はすべて中立地帯であり,黒龍江下流はこれに含まれるとの解釈をとるようになった。1854年にはシベリア総督ムラヴィヨフが国境画定の全権代表に任命され,軍隊を移動させた。彼の3年にわたる基地建設・植民によって1857年にはアムール州と沿海州とが建省された。同年ロシア側は,全権特使プチャーチンを北京に派遣しようとしたが,清国政府はこれを拒否,交渉は現地で行われるべきことを通告した。こうして1858年5月,ムラヴィヨフ黒龍江将軍奕山らが,愛琿において交渉のテーブルについた。

【条約交渉】席上,ロシア側は黒龍江北(左)岸とウスリー江東(右)岸を自国領とすることを要求したが,清国側はこれを拒否,ロシア側は,ついに武力示威の挙にでて戦争をも辞さずという強い態度を示した。当時清国は,内に太平天国,外にアロー戦争をかかえ,ここでさらにロシアと衝突することは極力回避せねばならなかった。奕山は脅迫に屈し,5月28日条約に調印した。

【条約の内容】[1]黒龍江北岸をロシア領とする。ただし,ウスリー江以東は国境画定まで共有地。[2]黒龍江・松花江・ウスリー江は第3国の航行を認めない。[3]満州人の住む黒龍江北岸江東64屯は清国が管轄。[4]国境貿易を認める。以上がその主要内容であった。

【清国の抵抗と再確認】両国は直ちにこれを批准した。時を同じくして,天津では英仏の終戦交渉に便乗して米露も条約改訂交渉にのぞんでおり,プチャーチンは6月13日天津条約の調印に成功した。この条約は最恵国条項によってロシアに英仏米と同等の権利を与えた。当時,清国は北京への門戸たる大沽・天津を陥され窮地にたっており,条約と引きかえにロシアの支援を得ようとしたのである。武器援助と軍事顧問団を率いて,イグナーチェフが派遣されたが,戦火をいったん収束させた清国は受け入れを拒み,イグナーチェフだけが北京に赴き,未解決の国境問題などを協議することとなった。1859年6月に,天津条約批准書交換のため自河を遡航しようとした英仏軍を撃退したばかりの清朝は,その勢いでウスリー江以東を両国共有としたのは奕山の独断であって無効であると,イグナーチェフに通告した。このため彼は,英仏軍と行動をともにし北京の地図や情報などを提供した。10月に英仏軍が北京に迫ると,清国側はイグナーチェフに調停を依頼せざるを得ず,その代償としてロシア側の提示した天津条約追加条約,いわゆる北京条約に一方的に調印させられたのである。この条約によって愛琿条約は再確認され,さらに1861年の国境詳定の付記(興凱湖界約)によってウスリー江以東・黒龍江以南から朝鮮半島つけ根にいたるまでの広大な土地がロシア領として確定した。こうして1858年から1860年にかけての愛琿・天津・北京条約は,ネルチンスク・キャフタ条約体制にとって代わり,露清両国の関係は不平等条約によって規定されることとなった。

〔参考文献〕矢野仁一『近世支那外交史』1930,弘文堂

吉田金一『近代露清関係史』世界史研究叢書,1974,近藤出版社

中国社会科学院近代史研究所『沙俄侵華史』2,1978,人民出版社

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