●藍 あい
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タデ科とマメ科(インド藍)の2種に大別され,現在の日本で藍といえばタデ科の一年草をさし,「蓼藍」とも呼ばれる。蓼藍は中国から渡来したが,荀子の〈青は藍より出でて藍より青し〉の藍がこれである。この植物は茎は高さ70cm,内外でよく枝分かれし,夏季紅色の小花を穂状につけ,葉に含まれた青色色素インジゴを利用して染料をとる。沖縄には「きつねのまご科」の琉球藍があって,古くより泥藍として利用されており,さらに山藍と呼ばれる自生の藍(とうだいぐさ科)もあり,以前は染料に用いられていた。藍の発祥は原始時代とされるが,中国,あるいはインドシナの原産とされている。中国・後漢(2〜3世紀)の『神農本草経』に〈藍は諸毒を解す〉とあり,薬用としてこれを服用すると虫毒を和らげ頭髪まで黒くすると記されている。当時すでに染料にも用いられていたようである。日本渡来の時期については諸説あるが,7世紀ごろというのが有力。日本で現存するもっとも古い藍染は,東京上野・法隆寺献納宝物館の「法隆寺献納宝物」。その色相に「縹(はなだ)」という名称が用いられており,これは後に藍と呼ばれるにいたる色であり,「縹」の文字が天智天皇の時代に初めて使用されていることから,日本における藍の栽培は660年ごろに始まったと推察されている。このなかには藍染め糸を使用しているものもあるが,遣隋使か初期遣唐使が藍か藍染色を日本に持ち帰り織物をつくったとする意見が多い。これは620年ころから始まったようである。平安中期に藍染布は縹色と呼ばれ,さらに色の濃淡により紺色・花田色・縹名・納戸色などの呼び方があった。「藍色」という色彩名が初めて登場したのは『延喜式』(929)で,この当時,3種類の藍染法があった。自然醗酵建(藍は建てると表現する),灰(アルカリ性物質)を加える醗酵建,乾藍による染色法である。1467年(応仁1)の応仁の乱の前後より各地に地方色のある染や織が始まり,木綿の実用化,明治初めまで続いた藍の日本建(にほんだて)の染法の確立もこのころ。
藍は武家社会でとりわけ愛用されてきたが,鎌倉時代には庶民のあいだでも需要が高まり,この時代新しく発生してきた商人によって商品として広く売られるようになった。以後,藍の生産は年々増大し,江戸時代の初めには京都の九条と摂津の東成が有名。元禄時代になると阿波の藍作りが藩主の奨励をうけて発達し,1800年ころには産額・品質において独占的地位を確立した。ほかにも筑後・備前・伊予・薩摩・長門などで藍作りが行われ,藍は日本の武家・庶民階級の代表的染物となった。
しかし明治初年からは輸入藍の圧迫をこうむり,1904年(明治37)以降ドイツからの人造藍の輸入が急増するにつれ,日本の藍の生産は減退していった。現在では四国の徳島などで細々と作られているだけで,伝統工芸品として日本人の心のなかに懐しさとともに生きているというのが現状である。
現代まで受け継がれている「藍建て」の方法は,まず藍を真夏の開花前に葉をとってよく乾燥させ葉藍とし,その上に水をまいて菰などをかぶせて醗酵させる。これを「すくも」と呼び,「すくも」をうすでひいて固めたものを「藍玉」という。この藍玉を熱湯を溶かしよく練り,一晩寝かせて翌日にカメに移し石灰灰水を混ぜ,さらに少量のフスマを入れ加熱して醗酵させる。この温度が染め液の良し悪しを決めることになる。1〜2週間すると紫金色の泡が盛りあがり,かきまぜると緑がかった泡が空気に触れ酸化し,青に変わる。この染め液を建浴(たてよく)とし,木綿・麻などの布を浸すと紺色に染まる。染めたばかりの藍は布になじまず落ちてしまうことがあるので,昔の人たちは本藍の着物は買って2〜3年はタンスに納めてから着た。布になじんでしまえば洗えば洗うほど色がさえ,また農耕生活に避けられない毒虫やマムシの害から農民たちを守った。
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