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●愛 あい

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 普通男女間の愛情として,現在は受けとられているが,愛はもともとはずっと広い意味合いをもっていた。古くから世界中で,愛をテーマとして,文学・芸術作品がつくられ,哲学的に思索されてきた。古代から中世までは,主として愛の倫理・宗教的側面が重視され,現代に近づくほど,愛の社会的・性的側面に,関心が集中するようになった。視点を変えていえば,愛を実体論的にとらえる傾向から,しだいに機能論的,あるいは構造論的にとらえる傾向が,強くなってきたといえる。愛はきわめて多義的であるため,一つの定義に収めることができない。そこで通時的(歴史的)に展開されてきた愛というものを,共時的(空間的)に並列し,その理念と関係性そして体験性に分けて考えるのが,現代にかなったとらえ方であろう。

【理念としての愛】西洋には,ギリシア時代に端を発する,愛についての二つの対立する理念がある。一つはエロスといい,もう一つはアガペーという。エロスはプラトンの哲学に説かれている。人間が価値あるもの,美しいもの,善きものを求めて,それと一体化しようとする憧れである。最初は美しい肉体から,少しずつ段階的に,より完全で永続的なものへ,感覚的なものから超感覚的なイデア(理念)へ,憧れの対象が高くなっていく。このようにエロスは,人間が自分の意志で,自分を高めようとつとめなければ,得られないものである。他方アガペーは,宗教的な意味での慈悲に近いものである。人それぞれの立場を越え,純粋に他者のために,自分を犠牲にする隣人愛のことである。これはキリスト教に,より普遍化された形で継承されている理念である。神の子でありながら,人の子としてキリストは,愛を説き歩いた。その結果受難にあい,自己の死を契機に,あらゆる人間が等しく愛し合わねばならないことを示した。けれどもエロスとアガペーは,対立すると同時に,たがいに補い合うものでもある。エロスが,あくまで意志によって自己を高めようとする,自己実現の過程であるのに対し,アガペー自己犠牲による他者実現の過程をとる。この相反する過程をとりつつ,エロスはアガペー的隣人愛にまでいたりうるし,アガペーには自らの愛する他者を,精神的にも肉体的にもいとおしく思う心が含まれている。東洋でも,古くから愛については語られてきた。孔子が『論語』で述べている愛は,性愛という意味に近い〈色〉ということばに示されている。〈徳〉と対比して,〈色〉は下等なものとみなされている。〈吾れ末だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり〉とある。仏教では,人間の愛を越えた〈慈悲〉というものが重視されている。人間ばかりでなく,植物・動物などいっさいの生命あるものへの,仏陀の等しく広い愛にすがるべきことを教えている。キリスト教の愛が人間主義的であるのに比べ,仏教の愛は宇宙論的である。これら倫理的・宗教的な愛の理念と異なって,『源氏物語』や『万葉集』には,男と女のあいだの情熱的な恋愛が描かれている。とくに『万葉集』には,〈千鳥鳴く佐保の川原のさざれ浪 止む時もなし我が恋ふらくは〉〈大伴坂上郎女〉(おおとものさかのうえのいらつめ)というふうに,ストレートに相手を恋する気持ちを歌ったものが多い。現代人の異性に対する熱烈な想いと,ほとんど同じものをここにみることができる。

【関係性としての愛】愛というものは,それ自体で存在するものではない。根本には,何かが別の何かを求める,という志向関係がある。求める何かが,一人の異性であれば異性愛であり,人間すべてであれば人類愛であり,自分であればナルシシズムである。また人間でなく共同的な観念や普遍的な価値であれば,祖国愛・神への愛,あるいは芸術への愛・自然への愛となる。愛はこのようにきわめて多義的で,多次元にわたる関係性を基底としている。近代になるにつれ,共同的な絆が崩れて,個別的な人間のあいだの関係性が強くなってくる。それも自己犠牲の上に立つアガペー的な関係性より,自己実現的なエロス的関係性が,前面に出てくるようになる。とくに近年目立ってきたのは,自己が自己を愛するナルシシズム的傾向である。愛における志向的関係の一方は,あくまで人間主体である。人間が求めるものが,観念や価値より人間であることが,近代の愛の特質である。それが性的な求め合いではなく,人格と人格との応答関係の位相を,強調する思想もある。ブーバーやキルケゴールなどの説くものが,これにあたる。愛が男と女の1対1の恋愛よりも,ともに高いものを求めて結び合う性の違いを超えた志向性をもつ愛である。フロイトは,人間が根源的にもっている衝動(リビドー)を,生の衝動(エロス)と死の衝動(タナトス)とみなした。両者は対立していると同時に,融合してもいる。愛する対象との一体化を求める生の衝動は,あまり強すぎると対象を破壊するまでにいたる。死の衝動とは,過剰な生の衝動のことであって,他者どころか自己自身をも暴力的に侵犯し,解体する作用をもっている。バタイユは,エロチシズムをこの点からさらに深く追求した。世界のうちにおける,非連続性を本質とする個体が,自己の限界を越えて連続性に達しようとするところに,エロチシズムは生まれる。非連続性を基礎とする社会の規則,日常性をエロチシズムは破壊し,死にいたらしめる戦慄すべき暴力性を秘めている。自己の外にむかうこの暴力性をサディズムといい,うちにむかう暴力性をマゾヒズムという。子供に対する母親のこまやかな愛情もあれば,初恋の相手に抱く切なく淡い恋心もある。結婚という制度に支えられた,夫婦の関係は惰性的なものもあるだろうし,愛憎まみれた深く屈折したものもあるだろう。だがエロチシズムをどこまでも追い求める欲求は,愛する相手の死をも意に介さないほどにいたる。ましてこの欲求を妨げるいかなる力や掟をも,打ち破っていく力をもっている。それはもともと性というものが,種の永続のためには,個体をむしろ犠牲にしてしまうところからくるのである。

【体験としての愛】愛というものは,どれほどことばや思考を尽くしても,とらえきれない部分が残る。愛とは,まず何よりも体験だからである。く愛は知の極点である〉と,西田幾太郎は『善の研究』で述べている。性愛の極致において,人間は意識を失うほどの恍惚を体験する。けれども恍惚の体験は,性愛ばかりでなく,神への愛という宗教的体験においてもおこりうる。それは身体総体が,純粋意識と化し,対象との一致のなかで,意識が発火=麻痺状態になるからである。愛の体験は,知を突き抜けた彼方に,人間を拉致していく。文学が主題とするものの大半は,愛といっても過言ではない。『源氏物語』をはじめとして,近松の戯曲そして近代では有島武郎の『或る女』など,日本文学だけでも枚挙にいとまがないほどの作品が存在する。強い愛ほど法や制度を超えるものであり,ときに自殺や情死という悲劇的結末を迎えるのも,珍しいことではない。エロスは盲目的な激しさで相手を求めるが,アガペーはより高きものを憧れて,自己を脱け出ていこうとする。このような愛の両義性を,聖アウグスチヌスは〈精神のなかまで肉体的であり,肉体のなかまで精神的である〉と記している。ただみつめ合うだけで伝わる愛もあるし,沈黙し耐える行為によって示す愛もある。体験としての愛は,このように曖昧で,両義的である。性愛から隣人愛にまたがる,複雑な愛の様相は,個人の次元ばかりでなく,共同して体験する次元においても,未来にわたって永久に変転を繰り返していくと思われる。

〔参考文献〕プラトン『饗宴』,『聖書』,アウグスティヌス『告白』,以上各社文庫本。増谷文雄編『親鸞集』筑摩書房。『万葉集』,紫式部『源氏物語』,フロイト『精神分析入門』,スタンダール『恋愛論』,シャルドンヌ『愛をめぐる随想』,夏目漱石『門』『心』その他,以上各社文庫本。田辺元『実存と愛と実践』筑摩書房。メルロ=ポンティ『知覚の現象学』みすず書房